|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ジャム : [じゃむ] 【名詞】 1. jam 2. (n) jam
ジャムカ(Jamuqa, ? - 1205年)は、モンゴル帝国以前のモンゴル部の首長のひとり。グル・カンと称する。同じくモンゴル部の首長から成長してモンゴル高原を統一し、モンゴル帝国を開いたテムジン(後のチンギス・カン)と対立し、滅ぼされた。歴史の敗残者であるが、チンギスの盟友およびライバルとして、諸書において非常に高く評価されている。 == 経歴 == ジャムカは、ジャダラン氏(あるいはジャジラト氏)と呼ばれる氏族の出身である。ジャダラン氏はモンゴル部に属するとされるが、『元朝秘史』によるとその祖ジャジラダイは、チンギス・カンの伝説的な祖先のひとりでボルジギン氏の始祖であるボドンチャルが、身重の状態で娶った妻ウリャンカダイの生んだウリャンカダイと前夫との間の子とされており、モンゴル部のカンを輩出したボルジギン氏とは伝説上の血統でもきわめて疎遠である。また、ジャジラダイからジャムカまでの世代数を数えると5世代であるにもかかわらず、ジャジラダイの義父ボドンチャルからチンギス・カンまでの間には11世代が数えられ、世代数がまったく整合しない。ジャジラトの名は、『遼史』にも独立した集団として見え、もともと高原北西部のかなり強大な集団であったものが、次第に衰亡してボルジギン氏に従属するようになり、モンゴル部の中に取り込まれたものとみられる。 伝説的な記録によれば、ジャムカは幼少の頃、後にチンギス・カンとなるテムジンと遊んだ友人であり、盟友(アンダ)の誓いを結んだ。しかしその後、高原北部の有力部族メルキトの勢力が強まってモンゴル部はメルキトに討たれ、ジャムカはメルキト部のもとに長らく抑留された。 のちメルキトから解放されるとモンゴル部に帰り、その一方の有力者として活躍した。血統的な出自はモンゴル部の中では有力なものではなかったが、きわめて優れた個人の才幹によりのしあがったものらしい。 テムジンが父イェスゲイを幼くして失った痛手から立ち直り、モンゴル部の中の有力な指導者のひとりとして台頭してくると、再び盟友の誓いを確認してその同盟者となった。『元朝秘史』は、ジャムカとテムジンが連絡を取り合って旧交を温めたのはテムジンがメルキトに襲われて妻ボルテを奪われ、奪還のためメルキトに復讐戦をしかけたとするが、この戦いは『元朝秘史』にしか存在が見えず史実性が疑われる。 いずれにせよ、テムジンとジャムカは同盟して隣接しあって遊牧生活を送っていたが、あるときジャムカの一族の者〔『元朝秘史』では弟のタイチャルが、ジェルメの弟ダルマラの馬を盗み、ダルマラに射殺される事件が起こった、と記述されている。〕がテムジン配下の遊牧民の家畜を密かに略奪しようとして、家畜を管理するテムジンの隷属民によって射殺される事件が起こった。この事件の結果、テムジンとジャムカの関係は冷え込み、テムジンはジャムカの牧地から離脱した。さらに、テムジンの属するキヤト氏族の首長たちが、一族の中で新興の有力者テムジンをカンに推戴したので、これを妬んだジャムカとテムジンの間の決裂は決定的となり、ジャムカはボルジギン氏の直系であるキヤト氏の同族にあたる有力氏族のタイチウト氏の側に走った。キヤトはモンゴル部の初代カン、タイチウトは第2代カンをそれぞれ始祖とするモンゴル部内の有力氏族であり、お互いにライバル関係にあった。 ジャムカはタイチウト氏族およびマングトなどその同盟氏族を動員し、キヤト氏族およびその同盟氏族を結集したテムジンと戦った。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いの勝敗は諸説あって明らかではない。このときジャムカは、捕虜とした敵将兵70人を釜茹での刑に処した。この残酷な極刑のために、ジャムカとタイチウト氏に対して不満を持ち失望した同盟氏族の首長たちは、続々とテムジンの陣営に投じた。 十三翼の戦いの後、ジャムカの勢力は次第に力を失っていったが、一方のテムジンは内紛によりカン位を追われたケレイト部のオン・カンを助けてケレイトのカンに復帰させ、ついにオン・カンと同盟してタタル部、ナイマン、メルキトなどモンゴル高原周縁部の諸部族との戦いに乗り出して急速に勢力を拡大していった。タイチウトはメルキトと同盟してテムジンにあたったが、1200年にテムジンとオン・カンの連合軍に敗れて滅ぼされた。 1201年、テムジンの勢力拡大を恐れたモンゴル東方の諸氏族は、高原東部の有力部族タタルと同盟を結び、ジャムカを指導者に推戴してテムジンとオン・カンと戦うことにした。ジャムカはこのときカンに即位し、グル・カン(「強大なるカン」の意)と称した。しかし、同盟に加わったコンギラト部族の首長のひとりデイ・セチェンは、テムジンの妻ボルテの実父であったことからこの同盟結成の事実をテムジンに密報し、テムジンは同年のうちにジャムカを打ち破って高原東方を平定した。 流浪の身となったジャムカは西方に逃れ、密かにオン・カンの子でテムジンをこころよく思っていないイルカ・セングンと連絡を取り、オン・カンとテムジンの離間を謀った。1202年、ジャムカはセングンとともにケレイトの営中でテムジンを暗殺する計画をめぐらせたが、テムジンに察知されて失敗した。翌1203年、オン・カンはついにテムジンとの同盟を破棄してモンゴル部を破るが、テムジンは同年のうちに勢力を取り戻してオン・カンに逆襲し、ケレイトを滅ぼしてしまった。 ジャムカは今度は高原西方の最強国であるナイマンの王タヤン・カンのもとに逃れ、テムジンの勢力拡大を恐れたタヤン・カンをテムジンとの決戦に導いた。しかしタヤン・カンは大敗を喫して戦死し、ジャムカはさらに高原北部のメルキトのもとに逃れた。テムジンはジャムカを追撃して引き続きメルキトに対して遠征し、ついにメルキトを滅ぼしてジャムカを捕らえた。 『元朝秘史』によれば、実際にジャムカを捕えてテムジンに引き渡したのはジャムカの部下たちであった。ジャムカの部下たちは、勝ち目のない戦を続けるよりも、ジャムカを捕えてテムジンに引き渡せば褒美がもらえると考えて、このような行為に及んだのであるが、テムジンは彼らに褒美を与えるどころか、私利私欲のために自らの主人を裏切った彼らの行為を怒り、彼ら全員をその場で斬首刑に処したという。その後、テムジンはジャムカとの旧交を思ってジャムカに助命をもちかけたが、ジャムカは決然としてテムジンの軍門に下ることを拒否し、自ら潔く死を望んだため、テムジンはやむを得ずジャムカを皮袋に包んで馬の大群に踏ませるという、貴人のための血を流さない処刑法によって殺害したと言われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャムカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|