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ジャーン・カルロ・ウィッテ(Jean Carlo Witte、1977年9月24日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(DF)。ドイツ移民の3世で、幼少時のニックネームは「アレモン(ドイツ人)」。 ==来歴== 7歳でサッカーを始める。11歳の時に地元サンタカタリーナ州ブルメナウのサッカークラブに加入、当時のポジションは攻撃的ミッドフィールダーだった。15歳の時に親元を離れてサンパウロ州サントスに住む親戚の下に下宿し、サントスFCの下部組織に加入した。 1995年、17歳でサントスのトップチームデビューを果たし、同年の全国選手権準優勝に貢献。1996年にはU-20ブラジル代表に選出され、翌年の南米ユース選手権を勝ち抜き、ワールドユースに出場した。1999年にはU-22ブラジル代表としてシドニーオリンピック予選を戦い、A代表デビューも果たしている。2000年、サントスはジャーンとポジションの重なるマルシオ、ガウヴァンらを補強。ジャーンは出場機会を確保するため移籍を志願し、ECバイーアへのレンタル移籍が決まった。 バイーアでの活躍がJリーグ・FC東京の目に留まり、2002年より同クラブへ移籍〔 FC東京 (2001年12月30日)〕。同年のJ1第1節鹿島戦でJリーグデビュー。同シーズン後半からは茂庭照幸とセンターバックでコンビを組む機会が増え、日本のサッカー、習慣にも徐々に適応しレギュラーとして出場を続けた。2003年には空中戦の強さと激しいマーク〔 東京中日スポーツ (2004年10月29日)〕、茂庭らとの好連携からJ1全クラブの中での最小失点を記録。堅守を築き2004年にはJリーグ優秀選手賞を受賞した〔 Jリーグ〕。また、この年のヤマザキナビスコカップでは前半中に2度の警告を受けて退場してしまったが〔公式記録 2004Jリーグヤマザキナビスコカップ 決勝 Jリーグ (2004年11月3日)〕「ジャーンのために」という気持ちでチームが結束し〔 Jリーグ (2004年11月3日)〕優勝を果たした。2005年にはリーグ戦全試合にフル出場〔選手出場記録 Jリーグ (2005年12月3日)〕。2006年のリーグ戦終了後にFC東京を退団した。 日本国内でのプレー続行を希望し〔ジャーン退団 東京で5年間鉄壁を誇ったブラジリアン今季限り 東京中日スポーツ (2006.12.01)〕、2007年よりJ2・湘南ベルマーレへ完全移籍〔 FC東京 (2006年12月15日)〕〔 湘南ベルマーレ (2006年12月15日)〕。湘南では移籍1年目からキャプテンを務めチームを牽引。2009年シーズンは自己最多の49試合出場、6得点を記録。サントス在籍時の同僚であったアジエルと共にチームのJ1昇格に大きく貢献した〔湘南退団のジャーンが別れの挨拶「40歳までプレーする」 ゲキサカ、2010.11.11〕。2010シーズンは開幕戦で得点を奪い〔湘南の11年ぶり“J1弾”はジャーン。「感激。ワクワクした」 ゲキサカ、2010.03.06〕、安定したパフォーマンスを見せたがシーズン中に足首を負傷。回復が思わしくないことから〔【馬入日記:11月8日】ジャーン選手の功績に感謝とリスペクトを。 湘南ベルマーレ (2010年11月8日)〕、シーズン終了を前に退団が発表されブラジルへ帰国することになった〔ジャーン選手退団のお知らせ 湘南ベルマーレ (2010年11月8日)〕。 現役続行に意欲を見せ〔 カナロコ (2010年11月8日)〕、ブラジルでのプレーを模索するも契約に至らず〔Jリーグ産直かわら版2011 アスパラクラブ、2011.10.14〕、現役を引退。引退後はサッカー選手の代理人を務めている〔Diretor de clube japonês visita base da Briosa em busca de talentos globoesporte (2014年5月22日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャーン・カルロ・ウィッテ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jean Carlo Witte 」があります。 スポンサード リンク
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