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ジュゼッペ・マッツィーニ : ミニ英和和英辞書
ジュゼッペ・マッツィーニ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジュゼッペ・マッツィーニ : ウィキペディア日本語版
ジュゼッペ・マッツィーニ[ちょうおん]

ジュゼッペ・マッツィーニ(, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)は、イタリアイタリア統一運動時代の政治家革命家カヴールガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。
== 生涯 ==
ジェノヴァで医学部教授の息子に生まれる。病弱ながら聡明で、ジェノヴァ大学を卒業し、弁護士を開業。彼はイタリアの秘密結社カルボナリに入党するが、彼の革命を目指す活動はすぐに法律から追われることになる。カルボナリの組織に限界を感じた彼は、1831年マルセイユで新たに「青年イタリア」を結成した。この組織のモットーは「神と人民」であり、いくつかの国家に分裂していたイタリア半島に1つの自由共和国を打ち立てることを目的としていた。彼はまた、似たような目的を持つ組織をいくつか創設している。すなわち、「青年ドイツ」、「」、「」そして「青年ヨーロッパ」がそれである。
マッツィーニは、イタリアの統一事業は民衆の蜂起なしには成功しないと信じていた。彼はその政治的信条を、出版活動を通じて公言し続けた。これにより彼の名は広く知られることとなる。思想的にはサン・シモンの唱える進歩論と共同社会論を支持し、平等主義を唱えるブオナローティと対立した。1837年にはロンドンに渡ってチャーティスト運動に接し、労働運動の重要性を認識する。
1848年革命に際しては、「ローマ共和国」を打ち立て、、と共に三頭執政官(Triumviro)の1人となった。この共和国はルイ=ナポレオンの軍事介入により短命に終わるが、イタリアの自由主義、国民主義はなおも高まりを見せた。海外に亡命した彼は、外国からミラノ、ジェノヴァなどの革命運動を指導した。しかし、現実を見るよりも理想に重きを置いたマッツィーニの主張はしだいに支持を失い始め、代わりにイタリアの国民主義者たちはサルデーニャ王国とその首相・カヴールに期待を寄せるようになってきた。
1859年~1862年の対オーストリア戦争において、フランスとの同盟を組んだカヴール、南部イタリアを進軍し占領地を王に献上したガリバルディらの活躍によって「イタリア王国」が成立したが、これはマッツィーニの説いた共和国とは程遠いものだった。
1864年には第一インターナショナルにも参加するが、マルクスらと対立。さらに1871年パリ・コミューンに反対の立場をとりバクーニン派とも対立して脱退。一時イタリア議会に選出されたが、王制への反発から拒否。
1872年ピサで死亡した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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