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ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)は、1991年(平成3年)5月15日から1994年(平成6年)8月31日までウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説のディスコである。正式名称は「''JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦''」。 == 概要 == ジュリアナ東京は総合商社・日商岩井(当時)とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により、1991年5月15日にオープンした。所在地は東京都港区芝浦1-13-10。総面積は1200m²、最大収容人数は2,000人〔ジュリアナ東京 - 『日経トレンディ』内「ヒット商品アーカイブス」より《2014年3月15日閲覧;現在はインターネットアーカイブに残存》〕。DJジョン・ロビンソンの「ジュリアナ〜トキオ〜!」は会場のボルテージが最高潮に達するほど有名なMC。エントランスからサイドがオブジェで飾られた空間を通り、まず巨大な自動ドアに辿り着く。そのドアから一歩中に入ると、DJブース、バラエティーなライティングが眼前に現れ、重厚なサウンドが響き渡り、ダンスフロアの熱気が一気に肌を打つという空間だった。 ジュリアナ東京に関して象徴的に語られることが多いのが、通称「お立ち台」と呼ばれる、ダンスホールの両脇に設置された高さ130cm程のステージ。ワンレン・ボディコンの女性が集まり「お立ち台」でジュリ扇(羽付き扇子)を振り回して踊る光景が一世を風靡した。女性のみが登れるお立ち台に対し、ダンスフロアを挟んでDJブースの向かい側の男性でも利用できる通称「雛壇(ステージ)」や、ボディソニックの音響設備、レーザー・スモーク・モニター等を取り入れ、ライティングオペレーション、ダンスフロアには巨大なシャンデリア、壁画やオブジェも設置し、大きな空間を最大限に活用した時代の最先端のディスコであった。また、「テクノトロニック」「ブラックボックス」などのアーティストを招き頻繁にライブを実施。 最寄り駅のJR田町駅では、ジュリアナ東京まで徒歩で赴くボディコン女性たちの姿が見られ、オフィス街のOLの服装とはそぐわない、ある種異様な光景が日常茶飯事のように見受けられた。 所在地だった港区芝浦・海岸地区は、バブル期にはウォーターフロントと呼ばれ、港湾設備や倉庫を改造した「芝浦ゴールド」(港区海岸)や「オーバー2218」といった有名ディスコが存在し、1980年代後半のディスコ・ムーブメントの発信地として脚光を浴びた。ジュリアナ東京開店時のコンセプトは、「普通のOLが上品な夜を過ごせる英国資本のコンサバティブディスコ」。これは、バブル期の時代の最先端であり、一見客には極めて入りづらかった「芝浦ゴールド」(1989年開店)へのアンチテーゼとして立案された。しかし、お立ち台がマスコミに大々的に取り上げられるにつれ、次第に「ボディコン・イケイケ」路線のゲストも増えることとなる。ジュリアナ東京ブームとともにボディコンの認知度が上がり、その光景を目当てに入場する男性客も増えていった。警察の指導が入り1993年11月にはお立ち台は撤去された。後に「クリスタル(サイド)ステージ」と名前を変え、高さも面積も縮小して復活したが、この一連の騒動で失った客足を取り戻すことは出来ず、様々な伝説を残しつつ1994年8月31日にジュリアナ東京は閉店した。 ボディコン女性がジュリ扇(羽付き扇子)を振り回して踊る光景は、今日もなおジュリアナ東京の映像が「バブルを象徴する光景」として紹介されることが多い。しかし実際の日本のバブル経済期は1986年12月から1991年2月まで〔岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、75頁。〕の51か月間であり、計画・建設段階はバブル経済期に行われたものの、オープン時のジュリアナ東京はバブル経済崩壊直後の残り香といったほうが正確である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジュリアナ東京」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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