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ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano, 1499年? - 1546年11月1日)はルネサンス中期の建築家・画家。幻想的、官能的なマニエリスム芸術を展開した。 == 経歴 == ローマのカンピドリオの近くで生まれ育ったジュリオ・ロマーノは、ユリウス二世の在位末期、ラファエロのもとで修行を始め、1513年にはラファエロの工房内において最も重要な人物となった。ジュリオ・ロマーノの名声は教会国家の範囲を超えて急速に広まった。1521年から翌年には、25歳前後にして、すでにマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレ内のイザベラ・デステの「グロッタの居室」を計画するほどだった。1522年の末には若きマントヴァ侯爵フェデリーコ・ゴンザーガがマルミローロにある城を別荘に改修させようとしている〔クリストフ・ルイトポルト・フロンメル著 稲川直樹訳 『イタリア・ルネサンスの建築』(鹿島出版会)(2011)〕。師であるラファエロの死後、ジュリオ・ロマーノは1524年10月、マントヴァのゴンザーガ家に招かれ、夏の離宮であるパラッツォ・デル・テ(Palazzo del Tè)の建築家に任命された。その後マントヴァにおいて、ゴンザーガ家の庇護の下、その特異な才能を開花させ活躍した。マントヴァのあらゆる建設に対する彼の権威は絶対的で、ここで仕事をした二十年ほどのあいだジュリオ・ロマーノが公国の建設計画を支配していたとともに、他の主要建築家たちとくらべて非常に自由に自分の建築を実現できるような特権的な立場にあった。バチカンの後期のフレスコ画やキリストの変容、「樫の木の下の聖家族」といった後期の作品は一般的にラファエロではなく彼の手によるものとするのが定説である。ラファエロとともにバチカン宮殿の壁画を描き、ラファエロが急逝した後に壁画を完成させ、名声を上げた。彼はマントヴァに自邸を建て、晩年まで暮らした。 彼が以後の建築家たちに与えた大きな影響はミケーレ・サンミケーリやセバスティアーノ・セルリオ、ヤーコポ・サンソヴィーノだけでなく、ガレアッツォ・アレッシや若きアンドレーア・パッラーディオの建築や計画案にも見ることができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジュリオ・ロマーノ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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