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ジュリッサ・ゴメッツ : ミニ英和和英辞書
ジュリッサ・ゴメッツ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジュリッサ・ゴメッツ ( リダイレクト:ジュリサ・ゴメス ) : ウィキペディア日本語版
ジュリサ・ゴメス

ジュリサ・ゴメスJulissa D'anne Gomez1972年11月4日 - 1991年8月8日)は、アメリカ合衆国の元体操選手である。ナディア・コマネチメアリー・ルー・レットンなどを指導してきたベラ・カロリーのもとで体操選手としての才能を見せ、将来を嘱望されていた〔ライアン、30頁。〕〔Houston Burial For Gymnast 18 AP Published: August 12, 1991 ニューヨーク・タイムズによる死亡記事、2012年9月1日閲覧。〕〔Gymnastics NEWSWIRE August 12, 1991 ロサンゼルス・タイムズによる死亡記事、2012年9月1日閲覧。〕。しかし1988年5月、跳馬の演技中に事故に遭って首から下が完全に麻痺した状態になり、1991年8月に死去している〔〔〔ライアン、87-88頁。〕。この事故を契機に、ロイター板と跳馬の隙間を埋めるスペーサーマットが採用され、選手がロイター板を踏み外した場合の衝撃を緩和させる措置が取られるようになった〔跳馬の技術発展 2012年9月1日閲覧。〕。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
ジュリサ・ゴメスは2人姉妹の長女として、テキサス州サンアントニオに生まれた〔ライアン、27頁。〕。両親は2人ともメキシコ国境に近いラレドの生まれで、季節農民の子供として親と一緒にコロラド州ミネソタ州で農業に従事しながら成長した〔。母オティリアは勉強好きな性格で大学に進んで教師になる夢を持っていたが、家庭の経済状態がそれを許さなかった〔。ラレドで教師の助手として働いていた時に学校理事者たちに認められて奨学金をもらってテキサス女子大学に進み、教師の資格を得ることができた〔。大学を出てからラミロと結婚した。ラミロには学歴はなかったが溶接の技術を習得しており、職を求めてサンアントニオに引っ越してから2人の娘を得た〔。
ジュリサは体操を始め、10歳のころには彼女の属するレベルの州大会で2位に入っていた〔。サンアントニオでの練習では物足りなくなったため、1982年に一家は揃ってアメリカの体操選手養成の中心地であるヒューストンに引っ越した〔ライアン、28頁。〕〔Tales from the vault Rebecca Seal The Observer, Sunday 4 December 2005 2012年9月1日閲覧。〕。体操が原因で家族が崩壊していく例を見ていたため、ラミロとオティリアは娘を1人だけでヒューストンに行かせることはしなかった〔。
ヒューストンへ引っ越した後ラミロは1か月の間失業していたため、一家はサンアントニオに戻ろうとしたが、ジュリサは有名な体操指導者、ベラ・カロリーにその才能を認められた〔〔。ジュリサがカロリーのジムを訪問したとき、カロリーはその日から練習をするようにと勧めた〔。カロリーの目には、ジュリサは彼の考えるスター性に欠け、臆病で虚弱気味だったが、才能豊かで練習熱心であり、不平を絶対に言わない選手と映っていた〔。ジュリサは、カロリーの育成する選手たちがより高い位置に上がるためにぜひとも必要な選手であった〔。
カロリーのジムに入ったジュリサは、「希望」チームの一員となった。「希望」チームの指導はリック・ニューマンが担当していた〔。このチームはジムで2番目の序列にあたり、カロリーが担当する特別チームの候補生で構成されていた〔。カロリーの特別チームは6人の特に優秀な少女たちで構成され、メアリー・ルー・レットンのようなスター選手を目指していた〔。少女たちは日曜を除いて週に46時間の練習に励み、休みはクリスマスに3日、7月4日の独立記念日に1日だけという厳しいスケジュールをこなしていた〔。
カロリーの指導は厳しいものであった。彼を始めとするジムの指導者たちは意識的に少女たちの対抗心を煽り、成績順に順列をつけ、生き残るのは最強の選手のみという雰囲気を作り上げていた〔ライアン、31-32頁。〕。カロリーは少女たちについて、「小さなサソリのようなもの」とたとえ、「小瓶に入れたサソリのうち生きていられるのは1匹だけ」とまで発言していた〔。指導者たちは時に少女たちに対して聞くに堪えない暴言を浴びせたり、痛みに耐えかねて泣いたという理由で暴力をふるってジムから放り出したりしていたが、父母たちはジムの指導者たちに抗議するようなことはしなかった。その理由は、体操選手として成功するためにはカロリーの指導に勝るものはない上に、今まで娘に投資してきた資金を無駄にしないためであった〔ライアン、30-31頁。〕。ジュリサは体操の技術を向上させていき、ついにカロリーの特別チームの一員となった。ただし、次第に積極性は失われてゆき、心の内を見せなくなっていった〔ライアン、32-33頁。〕。オティリアは娘がカロリーのジムに通いだしてから無口になり、微笑むことさえ少なくなっていることに気づいていた〔。
ジュリサの体には、カロリーのジムに入って以来常に痛みが付きまとうようになっていた。足首の疲労骨折に始まり、腱鞘炎、膝の腱の故障と続き、最後は膝の捻挫と進んだ〔。カロリーはそのような状態のジュリサに対しても容赦することなく、彼女がカロリーのもとで体操を続ける意志を持ち続けているかどうかを探っていた〔。彼の指導者としての理念は、かつての東側諸国の理念と同様の「血が出ていなければ、なんてことない」というものであった〔ライアン、37-38頁。〕。ジュリサは不満や恐怖を口にすることなく練習に励んでいた。しなやかで優雅な身のこなしを生かして平均台種目を得意としたが、瞬発力を必要とする跳馬は苦手だった〔ライアン、34-35頁。〕。
ジュリサのコーチ陣は、苦手な跳馬を克服するために、当時の女子体操跳馬の技で最も難度の高い「ユルチェンコ」(Yurchenko)を習得させようと試みていた〔。この技は、助走の段階でロイター板に対してロンダート(側方倒立回転跳び1/4ひねり後向き)〔ロンダート スポーツ辞典 s-words 2012年9月1日閲覧。〕から後転跳びを行い、後方抱え込み宙返り後に着地するもので、1982年にソビエト連邦の体操選手が発表したものであった〔〔『魂まで奪われた少女たち』では1983年の発表と記述しているが、ここでは外部リンクの記述に従った。〕。ユルチェンコは、「ツカハラ」(側転跳び1/4ひねり後方かかえ込み宙返り)〔ツカハラ飛び1回ひねりとカサマツ飛びの違い 体操競技普及委員会 2012年9月1日閲覧。〕ほどの技術を要しなかったが、着地の正確な地点と確実性、そしてタイミングが求められる技であった〔。ジムで一緒だった選手たちは、ジュリサが跳馬に自信を持てずにいることに気づいていた。跳馬に必要な確実性をジュリサは持っていない上に、ロイター板への着地点が定まっていなかった〔ライアン、35-36頁。〕。そしてカロリーはジュリサに対して「いつかロイター板で失敗するから注意しろ」とも言っていた〔。「ユルチェンコ」は危険な技だが、瞬発力に欠けるジュリサのような選手が高得点を上げるために必要な技だった〔〔。実際にジュリサはいくつかの試合で「ユルチェンコ」によって高得点を得るようになっていた〔。
ソウルオリンピックが近づいてきた時期に、カロリーは朝晩の練習以外に昼間も練習することを決めた。ジュリサが学校はどうするのかと質問すると、彼は首をすくめて「ゴルフじゃないんだ」と答えた。それは、最高のことを成し遂げるには多くのことを犠牲にしなければならないということを意味していた〔ライアン、37-39頁。〕。ジュリサはチームメイトのうち5人がすでにそうしていたのと同様に学校を辞めて、通信教育を受けることにした〔。ソウルオリンピックが1年後に迫り、練習は厳しさを増していった。ジュリサの受けるストレスは日増しに重くなり、耐え切れなくなった彼女はカロリーに自分の心境を訴えたが、返ってきたのは冷淡な反応だった〔。
この出来事の直後、1987年の春にジュリサは膝を捻挫した〔。医者の診断は1か月の休養だったが、ジュリサはジム通いを止めなかった〔。カロリーのジムでは、発熱や水疱瘡、骨折や捻挫は練習を休む理由として認められていなかった〔。そこで彼女は、足首に負担のかからない段違い平行棒の練習を続けることにした〔〔ただし、着地の練習は行わなかった。〕。カロリーはジュリサに対して、無視と叱責を繰り返していた。彼の内心がどうであれ、その態度は外部の人間や他の選手の家族からは卑劣に映っていた〔〔。
1987年初夏、ついにカロリーはジュリサに「最後通告」を与えるという手段に出た。それは膝の捻挫をかばっているジュリサに対して、他のトップ選手と同様な練習をするか、ジムを辞めるかという選択を突き付けたのであった〔。その日の夕方、たまたまオティリアはジムにジュリサを迎えに来ていた。防音ガラス越しでカロリーの声は聞こえなかったが、彼が娘を怒鳴りつけている様子が見て取れた〔。帰りの車中でオティリアはジュリサに、ジムでの出来事について訊ねた。最初のうちジュリサは「別に」と言っていたがオティリアがなおも質問を続けると「カロリーなんて大嫌い」と言い、もうジムには戻りたくないと泣き出してしまった〔。
ゴメス夫妻は、1か月分の基礎指導料や段違い平行棒の個人指導料などの名目で、カロリーに1000ドルを支払ったばかりであった〔。ジュリサは全米ランキングで13位にまで順位を上げ、ソウルオリンピックの選考会を控えていたため、新しい指導者探しが急務となった〔ライアン、28-29頁。〕。当時のヒューストンには、トップクラスの体操選手を抱えている体操指導者はカロリーを除けば1名だけだったため、ジュリサはその指導者のジムに移った〔。しかし、そのジムも1988年1月に辞めることになり、オティリアはジュリサのためにミズーリ州ブルースプリングス(Blue Springs)の体操指導者、アル・フォングに電話を掛けた〔〔ライアン、39-40頁。〕。フォングにとっても、ジュリサのような才能ある選手を指導するのは願ってもないことだったので、1988年2月にジュリサは単身でブルースプリングスに引っ越した〔〔。
フォングはジュリサの跳馬演技を見て、技術的な問題があることにすでに気づいていた〔ライアン、43-45頁。〕。ジュリサは「ユルチェンコ」の実施時に、ロイター板の端から10センチメートルから12センチメートルのところとされる「安全地帯」に着地していなかった〔。そこでフォングは、ジュリサの助走と跳び方を手直しし、一定の改善が見られたと判断して、1988年5月に東京で開催される国際スポーツフェアに彼女を派遣することを決めた〔〔。
東京に出発する前の週末に、サウスダコタ州で競技会があった。ジュリサは両親にぜひ来てほしいと懇願し、2人はその願いを受け入れた〔。競技会でのジュリサは、特に跳馬で見事な演技を披露し、「ユルチェンコ」は最高の出来栄えで9.7の得点を上げた〔。その夜、ジュリサは両親と一緒にホテルに泊まり、家族だんらんのひと時を過ごした。翌日も家族ですごし、午後になってゴメス夫妻は娘を体操チームのホテルに送り届けた〔。家に戻るために出発しなければならない両親に、ジュリサは「さよなら」と4回言った〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジュリサ・ゴメス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Julissa Gomez 」があります。




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