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デイム・ジュリー・エリザベス・アンドリュース(デイム・ジュリー・アンドルーズ、Dame Julie Elizabeth Andrews, DBE, 1935年10月1日 - )〔"Dame Julie: The sound of music" . BBC. 1999年12月31日。 2007年1月29日閲覧。〕は、イギリス生まれの女優、歌手、 作家、演出家、ダンサー。2000年、エリザベス2世より舞台芸術の功績でデイムの称号を叙された。 アンドリュースはで1948年にデビューした。また1954年の上演作品『』でブロードウェイデビューし、両方ともトニー賞に彼女がノミネートされた『マイ・フェア・レディ』、『』で世間の名声を得た。1957年にはテレビで1億人以上が視聴したミュージカル『』に主演した。 アンドリュースはディズニー映画『メリー・ポピンズ』(1964年)で長編映画デビューし、アカデミー主演女優賞を獲得した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)では2回目のアカデミー賞ノミネートを果たし、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。後者の映画は現在でも最高興行収入を獲得した映画第3位である。1964年から1967年の間、『卑怯者の勲章』、『ハワイ』、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『引き裂かれたカーテン』、『モダン・ミリー』などでも人気を得て、当時の世界で一番成功した映画スターとなった。〔William Ruhlmann "Julie Andrews Biography" . AllMusic. 2014年2月18日閲覧。〕 1970年代、映画でのキャリアは『』、『暁の出撃』、『』の商業失望により鈍化していった。しかし、『テン』(1979年)、で商業成功の卓越性に戻り、『ビクター/ビクトリア』(1982年)では3回目のアカデミー賞ノミネートを果たした。1980年代の残りは、批評家などからは絶賛されたものの商業的に不成功だった『''That's Life!'' 』と『』に出演した。1990年代、彼女の名声は薄らいでいった。 アンドリュースの映画でのキャリアは『プリティ・プリンセス』(2001年)とその続編、『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』(2004年)、アニメーション映画『シュレック』シリーズ(2004年 - 2010年)、『怪盗グルーの月泥棒 3D』の成功でもう一度復活した。彼女の4オクターブもの、非常に印象的な声域は、1997年の喉の手術によって失われてしまった。2003年にはのベイ・ストリート・シアターで彼女の最初のブロードウェイ成功作である『』が公演され、演出家を務めた。 アンドリュースは児童作家でもあり、2008年に、ロンドン大空襲の思い出などが含まれている自伝、『'' Home: A Memoir of My Early Years'' 』を出版した。 アンドリュースはアカデミー賞を1度受賞している他に、英国アカデミー賞を1度、ゴールデングローブ賞を5度、グラミー賞を3度、エミー賞を2度、そしてディズニー・レジェンドとケネディ・センター名誉賞の受賞経験がある。2002年、「100名の最も偉大な英国人」に59位で選出された。 == 生い立ち == ジュリア・エリザベス・ウェルズ (Julia Elizabeth Wells)〔''Julie Andrews'' . Reel Classics.〕は、1935年10月1日、イギリスのサリー州で生まれた。〔Biography and Video Interview of Julie Andrews at Academy of Achievement. 〕母親の、バーバラ・ワード・ウェルズ(旧姓モリス)は、金属加工と木工の学校教師の、エドワード・チャールズ・"テッド"・ウェルズと結婚した。しかし、アンドリュースは母親が彼女が知らない友人とよく会っているのを不思議に思っていた。〔Julie Andrews: I was a secret love child , ''Daily Express'' 2008年3月10日]〕〔Spindle, Les. ''Julie Andrews: A Bio-Bibliography''. Greenwood Press (1989) ISBN 0-313-26223-3. pp. 1–2.〕1950年にアンドリュースは本当の父親は別の人だと母に教えられたが、〔〔2008年に自伝が出版されるまで公表されなかった。〔Brockes, Emma (30 March 2008). "Books About Julie Andrews — Memoir — Biography". The New York Times (New York City). ISBN 0362-4331. 2010年8月3日閲覧。〕 第二次世界大戦が勃発した頃、バーバラとテッド・ウェルズは別々の道を行くことになる。バーバラがテッド・アンドリュースとエンターテイメンツ・ナショナル・サービス・アソシエーション(ENSA)で軍隊の接待をしていた頃、ロンドン大空襲によってサリーに疎開してきた子供達を支援したテッド・ウェルズであったが、しばらくして二人は離婚した。バーバラがテッド・アンドリュースと、そしてテッド・ウェルズがサリーのの戦時工場で織物の仕事をしていた元ヘアスタイリストと、両者とも1939年に再婚した。〔Spindle, Les. ''Julie Andrews: A Bio-Bibliography''. Greenwood Press (1989)] ISBN 0-313-26223-3. pp. 1–2.〕〔Windeler (1970), pp 20–21〕 アンドリュースはしばらくテッド・ウェルズと弟のジョンと住んでいたが、1940年頃、テッド・ウェルズは才能のある娘に巧妙なトレーニングを受けさせた方が良いと考え、彼女の母親と義父のところに行かせた。2008年に出版された自伝によると、ジュリーはテッド・アンドリュースを「テッドおじさん」と呼んでいたのだが、彼女の母親に義父を「お父さん」と呼びなさいと言われ、呼び名を変えた。しかしジュリーはまだ幼く、テッド・ウェルズのことを忘れられなかったため、この呼び名を嫌ったという。 アンドリュースは、彼女の家族は「とても貧乏でロンドンのスラム街に住んでいた」「その頃は私が人生で一番苦労した時期です。(very poor and we lived in a bad slum area of London, That was a very black period in my life.)」と語っている。彼女の義父は乱暴で、アルコール依存症であった。〔 テッド・アンドリュースは酔って、彼の継娘とベッドを共にしようと二回も試みたため、アンドリュースは部屋に鍵をかけるようになった。〔しかし、母親と義父による公演の成功と共に、生活に余裕ができたためもう少し良い地域に住めるようになり、まずベックナム、そして戦争の終結とともにアンドリュースの故郷であるに順に移っていった。そしてアンドリュースの家族は昔母方の祖母が家政婦として勤めていた家(現在は取り壊されている)に居住した。〔 アンドリュースの継父は彼女にレッスンを受けさせ始めた。最初はロンドンにある舞台芸術に特化した学校である、LondonCone-Ripman Schoolで、さらにはソプラノ歌手で声楽師でもあるマダム・に学んだ。リリアンについてアンドリュースは「彼女は私に大きな影響を与えてくれました」、 「彼女は私の三人目の母のような存在で、私は世界中で一番たくさんの母親と父親がいます。(She was my third mother – I've got more mothers and fathers than anyone in the world.)」と語っている。リリアンの自伝『''Julie Andrews – My Star Pupil'' 』で、リリアンは「ジュリーの声の精度と音質には驚かされた。彼女にはすぐれた絶対音感の才能があった。(The range, accuracy and tone of Julie's voice amazed me ... she had possessed the rare gift of absolute pitch)」と書いている(しかしアンドリュースはこの話を2008年の自伝''Home''で否定している)。〔〔Windeler (1970), pp 22–23〕アンドリュースは「マダムは私がモーツァルトやロッシーニをできると確信していたけれど、正直なところ私は一度もやったことがありません。(Madame was sure that I could do Mozart and Rossini, but, to be honest, I never was)」と後に語っている。〔Stirling, p.24〕自身の声について、「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした。(I had a very pure, white, thin voice, a four-octave range – dogs would come for miles around.)」と語っている。〔LondonCone-Ripman Schoolを卒業後、ベックナムの地元の学校、Woodbrook Schoolで芸術教育を続けた。〔Timothy White (1998) ''The entertainers'' p.111. ''ビルボード'', 1998〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジュリー・アンドリュース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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