翻訳と辞書
Words near each other
・ ジュール・ポール・バンジャマン・ドゥルセール
・ ジュール・マザラン
・ ジュール・マスネ
・ ジュール・ミシュレ
・ ジュール・ミシュレ (装甲巡洋艦)
・ ジュール・メグレ
・ ジュール・モック
・ ジュール・ラシュリエ
・ ジュール・ラドゥメグ
・ ジュール・ラニョー
ジュール・ラフォルグ
・ ジュール・ランカン
・ ジュール・ラヴィロット
・ ジュール・リシャール
・ ジュール・リメ
・ ジュール・リメカップ
・ ジュール・リメ・カップ
・ ジュール・リメ・カップ世界選手権
・ ジュール・リメ・カップ世界選手権大会
・ ジュール・リメ・トロフィー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジュール・ラフォルグ : ミニ英和和英辞書
ジュール・ラフォルグ[じゅーる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジュール : [じゅーる]
 【名詞】 1. joule 2. (n) joule
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

ジュール・ラフォルグ : ウィキペディア日本語版
ジュール・ラフォルグ[じゅーる]

ジュール・ラフォルグJules Laforgue, 1860年8月16日 - 1887年8月20日)は、フランス象徴主義詩人。ウルグアイモンテビデオで生まれ、フランスパリに死す。
==生涯==

父シャルル=ブノワ・ラフォルグと母ポーリーヌ・ラコレが出逢ったのはウルグアイだった。そこで父親は、最初教師を、続いて銀行員をしていた。結婚後、11人の子供に恵まれ、ジュールはその第二子。1866年、一家は、父親の生地である、フランスのタルブに移る。1867年、家族はウルグアイに戻ることになり、ジュールと兄のエミールだけが、従兄弟の家に預けられる。
1869年、一家はパリに移転。1877年、母親が流産の末、死亡。ジュールは決して優等生ではなかった。その年から翌1878年にかけて、バカロレアの試験に3度失敗する。彼はパリの図書館に通い、フランスのすぐれた著者の本を読み、独学で勉強する。
1879年、父親が病気になり、一家はタルブに引っ越すことになるが、ジュールはパリに残る。トゥールーズで最初の詩を発表。さらにいくつかの詩を発表し、その年の末には、注目される詩人となる。1880年、彼はパリの文壇に出入りするようになり、「近代生活」誌の編集者ポール・ブールジェに目をかけられる。
1881年、文学の仕事が忙しくなり、タルブでの父親の葬式にも出られなかった。その年の11月から1886年にかけて、ドイツ皇后アウグステ・ヴィクトリアのフランス語読書係(一種の文化的カウンセラー)として、ベルリンで暮らす。彼は多額の報酬を得て、余暇を趣味に費やした。1885年には、代表作である『聖母なる月のまねび』を書き上げる。
1886年、フランスに帰国。イギリス人女性リア・リーと結婚。しかし、その翌年、結核でこの世を去る。残された妻も、その翌年、同じ病気で死亡。
ウォルト・ホイットマンに強い影響を受けたラフォルグは、自由詩の形式を用いたフランスの最初期の詩人の一人である。哲学的には、ショーペンハウアーエドゥアルト・フォン・ハルトマンの熱心な信奉者だった。若い頃のT・S・エリオットエズラ・パウンドは、ラフォルグの詩に多大な影響を受けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジュール・ラフォルグ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.