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ジョゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain、1836年7月8日 - 1914年7月2日)は、イギリスの政治家。 バーミンガム市長(在職: 1873年-1876年)として社会主義的な市政改革を行って名をあげ、国政に進出。はじめ自由党に所属し、ウィリアム・グラッドストン内閣で通商大臣(在職: 1880年-1885年)や自治大臣(在職: 1886年)を務めたが、その後、離党して自由統一党を結成し、保守党のソールズベリー侯爵やアーサー・バルフォアの内閣で植民地大臣(在職: 1895年-1903年)を務めた。積極的な帝国主義政策を遂行し、大英帝国の強化・拡大に努めた。 社会主義と帝国主義を融合した社会帝国主義の政治家として知られる。 ロカルノ条約でノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレン外相やナチス・ドイツへの融和政策で知られるネヴィル・チェンバレン首相は子息である。 == 概要 == 1836年に製靴業の実業家の息子として生まれる。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンを卒業後、父の製靴工場で働く。1854年から父が出資していたバーミンガムのスクリュー製造会社の経営にあたり、労働者に優しい大企業に育て上げた。1874年にバーミンガム市長となり、ガス・水道の市営化など社会主義的政策を行って注目を集める。 1876年にから自由党の庶民院議員に当選して国政に移る。1877年に「」を結成し、その巨大な大衆動員能力を背景にして自由党内に「新急進派」と呼ばれる派閥を形成し、社会政策・帝国主義政策を訴えた。 1880年のの自由党の勝利には連盟が大きく貢献しており、総選挙後に組閣された第二次グラッドストン内閣にとして入閣した。貿易を所管したことで帝国主義思想を強め、エジプトの半植民地化などを推進した。 1885年のでは、農地改革などを盛り込んだ非公式綱領を掲げて国民の人気を博し、同選挙の自由党の勝利に貢献した。 1886年2月に成立した第三次グラッドストン内閣にとして入閣するも、グラッドストンが推し進めるアイルランド自治法案を大英帝国の結合を弱める物として反対してすぐに辞職した。その後、自由党ホイッグ派の領袖ハーティントン侯爵とともに自由党を離党して自由統一党を結成した。 1886年7月に成立した保守党政権の第二次ソールズベリー侯爵内閣に対してはチェンバレンら自由統一党は閣外協力の立場をとり、首相ソールズベリー侯爵に圧力をかけて一定の農地改革や地方自治を推進させた。 1895年のでは自由統一党は保守党と連立政権(保守統一党政権)を組み、チェンバレンもとして入閣した。トランスヴァール共和国再併合計画に主導的な役割を果たし、第二次ボーア戦争を引き起こした。1902年のアーサー・バルフォアの内閣にも植民地大臣として留任したが、関税の再導入を主張したことで閣内・党内の自由貿易派と対立を深め、1903年には辞職した。 その後も関税再導入を主張し続け、保守統一党の亀裂を深めた。1906年には脳卒中で倒れ、1914年に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョゼフ・チェンバレン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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