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ジョホール王国(ジョホールおうこく、、または、ジョホール・リアウ(''Johor-Riau'')、ジョホール・リアウ・リンガ(''Johor-Riau-Lingga'')、公式にはジョホール帝国(ジョホールていこく、))は1528年に成立したマレー半島南部を本拠とする港市国家で、マラッカ海峡両岸(現在のマレーシア、シンガポールおよびインドネシア)におよぶ海上帝国を築いた。マラッカ王国を継承したマレー人による国家でイスラーム教を奉じ、18世紀前半の政変を経て、王都はリアウ諸島のビンタン島(現インドネシア・リアウ諸島州)に遷された。現在のマレーシアを構成する州のひとつであるジョホール州として現代につらなる王国であり、こんにちも世襲のスルタンによって王位が継承されている。 == 歴史・沿革 == === ムラカ(マラッカ)の陥落 === 1509年、の率いるポルトガル王国の遠征隊が海上貿易で繁栄するムラカ(マラッカ)に初めて到着して通商を要求、当初、マラッカ王国のスルタン、はポルトガルに交易と商館の建設の許可を与えた。しかし、インドにおけるポルトガル勢力のムスリム迫害を聞きおよんでいたイスラーム商人がマフムード・シャーにポルトガル人の排除をはたらきかけたため、王国は奇襲によりポルトガル人約60名を殺害した。これに対し、ポルトガル艦隊は24人の捕虜をムラカにのこしてインドに帰還した〔石澤&生田(1998)p.327〕。 この報せを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケ(アルバカーキ)は1511年7月、16隻の艦隊を率いてムラカに来航し、マラッカ王国に対して捕虜の釈放と要塞建設の用地の提供、さらには賠償金の支払いを要求したが、マラッカ王国側は捕虜の釈放をのぞいた諸条件の受け入れに難色を示したため、アルブケルケの軍は上陸してムラカの港市に攻撃を加えた。マラッカ王国は中国やシャム(タイ王国)、ビルマ(ミャンマー)、さらには地中海地域より輸入した火砲と自国で生産した鉄砲で応戦した〔A.リード(2002)pp.298-299〕。マームド・シャーの軍隊はポルトガル船隊の15倍の兵力を有していたといわれ、攻防戦は熾烈をきわめた〔永積(1975)pp.99-101〕。しかし、マラッカ王国の兵は火器の使用法について必ずしも熟知しておらず、性能もポルトガルのものに劣っていた〔弘末(1999)p.97〕。また、インドのグジャラート出身の人びとはポルトガルに徹底抗戦したものの、国内のジャワ商人は当初からアルブケルケに協力的で、中国商人やクリン人のなかにはポルトガルと内通した一派があって統率を欠いていた〔〔篠原陽一「3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出」 (海上交易の世界と歴史)〕。最終的に華僑がポルトガル側についたことで勝敗が決し、同年8月、ついにムラカが陥落した〔。これがポルトガルによる「」である。 この時点で王国がその影響力を行使していたのは、今日のジョホール州(マレーシア)およびリアウ諸島州・リアウ州(インドネシア)にほぼ相当し、主として、マレー半島のクラン川からリンギ川までの地域、(現マレーシア・ムラカ州)、(ムアール。ジョホール州)、(ジョホール州)、シンガポール、その他のマレー半島東海岸沖の島々、の島々、ビンタン島をはじめとするリアウ諸島およびリンガ諸島、そしてスマトラ島の、(カムパル。現インドネシア・リアウ州)およびの諸地域であった〔Winstedt R.O.(1992) p.36〕。しかし、マラッカ王国の直轄地はムラカ陥落前にあってもリンギとムアルのあいだのマレー半島西海岸と内陸はグノン・レダンにいたる狭小な範囲にすぎなかった〔弘末(2004)pp.131-135〕。その周囲にはマラッカ王が家臣に分与した王国の属領があり、さらに、インドラギリ(イドゥラギリ。同リアウ州)、ロカン、カンパル、シアク、トゥンカルなどのマラッカ海峡に面したスマトラ島東岸諸国、およびマレー半島東岸のパハンは、王国にとっては属国にあたっていた〔。 いずれにせよ、このようなマラッカ王国の勢力圏を中核として、ムラカの政治文化が形成されており、ムラカの王族や貴族、さらにマレー語を母語とする地元民はマレー人と呼ばれていた。マレー人商人は他地域からの商人に比べて低い、税率3パーセントの税額で商業取引を営むことができた〔。 なお、ムラカを陥落させたあと、ポルトガルはシャムのアユタヤ王朝やビルマのペグー王朝に使節を送り、友好関係を結んでいる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョホール王国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johor Sultanate 」があります。 スポンサード リンク
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