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ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi, 1890年7月20日 - 1964年6月18日)は、20世紀前半に活動したイタリアの画家。20世紀美術史において最も重視される画家の一人である。さまざまな芸術運動が生まれては消えていった20世紀において、独自のスタイルを確立し、静物画を中心にひたすら自己の芸術を探求した画家であった。初期には未来派や形而上絵画の運動に近付いたこともあったが、生涯にわたって特定の画派や運動に深入りすることなく、独自の道を歩んだ。 == 生涯 == モランディは1890年、ボローニャに生まれた。彼はその生涯のほとんどをボローニャと避暑地のグリッツァーナ(ボローニャ近郊、アペニン山麓の村)で過ごした。絵画研究のためにローマやフィレンツェを訪れることはあっても、イタリアを出ることはほとんどなく、1956年のパリ旅行が最初の外国訪問であった。モランディはボローニャのフォンダッツァ通りにあるアトリエの薄暗い部屋に閉じこもり、卓上静物と風景という限られたテーマに終生取り組んだ。 モランディは1907年、ボローニャの美術学校(アカデミア・ディ・ベレ・アルティ)に入り、1913年までそこで学んだ。彼は生涯を通じ、特定の画家グループに属することはほとんどなかったが、初期には未来派及び形而上絵画との接触が若干あった。すなわち、1913年にはフィレンツェのテアトロ・ヴェルディにおける「未来派の夕べ」という行事に参加しており、1914年には地元ボローニャのホテル・ヴァリオーニで開催された未来派の展覧会を見、未来派の中心的作家であるウンベルト・ボッチョーニやカルロ・カッラらと会っている。モランディは同じ1914年からボローニャの小学校でデッサン教師となり、1929年までこの職にあった。この間、1915年軍隊に入るが、病気のため数週間で除隊。回復後、自身の初期作品の多くを破棄したという。 1910年代末から1920年代始めにかけてモランディはジョルジョ・デ・キリコらのいわゆる形而上絵画の画家たちと接触し、モランディ自身もデ・キリコ風の作品を残している。1922年にはフィレンツェで開催されたフィオレンティーナ・プリマヴェリーレ(フィレンツェ春期展)にデ・キリコの紹介で出品。展覧会のカタログにはデ・キリコがモランディを讃美する紹介文を書いた。1926年と1929年にはミラノにおけるノヴェチェント展に参加した(「ノヴェチェント」は「1900年代」の意味)。この「ノヴェチェント」はルネサンスの古典を範として、1900年代のイタリア美術を復興させようという、反前衛、保守的美術運動であり、思想的にムッソリーニのファシズムとつながりがあった。ただし、モランディ自身がファシズムに加担した形跡はない。 1930年、モランディは自分自身も卒業したボローニャ美術学校の版画教師となり、第二次大戦後の1956年までこの職にとどまる。1940年代からは夏をグリッツァーナ、それ以外をボローニャで過ごすようになり、静物画とグリッツァーナの風景画の2つが主要な制作テーマとなった。 1950年代から国際的な名声が高まり、ヴェネツィア・ビエンナーレなどに盛んに出品している。1953年にはサンパウロ・ビエンナーレ版画部門で大賞、1957年には同じくサンパウロ・ビエンナーレ絵画部門で大賞を受けた。 1964年、故郷ボローニャで死去。モランディは生涯独身であり、彼の生活の面倒はおもに3人の妹たちが見ていた。なお、1993年にはボローニャにモランディ美術館が設置されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョルジョ・モランディ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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