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ジョージ・ゴーディエンコ : ミニ英和和英辞書
ジョージ・ゴーディエンコ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョージ・ゴーディエンコ : ウィキペディア日本語版
ジョージ・ゴーディエンコ[ちょうおん]

ジョージ・ゴーディエンコGeorge Gordienko1928年1月7日 - 2002年5月13日)は、カナダプロレスラー画家マニトバ州ウィニペグ出身のウクライナ系カナダ人。
プロレスラー時代はカナダやヨーロッパを主戦場にベビーフェイスのポジションで活躍し、引退後は画家に転身して成功を収めた。
プロレス界でも最強のシューターの一人とされるなど、いわゆる「最強伝説」を持つ屈指の実力者だが、後述する理由によりプロレス史の表舞台に立つことはなかった。日本での異名は「岩石男」〔『THE WRESTLER BEST 1000』P43(1996年、日本スポーツ出版社)〕。
== 来歴 ==
ウェイトリフティングで活躍後、ジョー・パザンダックからレスリングのトレーニングを受け、第二次世界大戦後の1946年にデビュー。サンフランシスコミネアポリスなどアメリカのメジャーテリトリーを転戦したが、共産主義の会合に参加したことがあったため、ソビエト連邦ウクライナ系の出自も災いして共産党シンパと見なされ赤狩りの対象となり、アメリカでの活動を断念〔〔〔。
カナダに帰国後の1949年からプロレスを一時廃業していたが、1952年下期よりスチュ・ハートの招きでリングに復帰〔〔。以降、1950年代カルガリースタンピード・レスリングを主戦場に、1953年5月26日にはエドモントンにてルー・テーズNWA世界ヘビー級王座に挑戦。1955年にも同所でテーズと対戦し、90分時間切れ引き分けの戦績を残している〔。スタンピード・レスリングでは、フラッグシップ・タイトルだったNWAカナディアン・ヘビー級王座に1955年と1956年の2回にわたって戴冠。ジン・キニスキーレジー・リソワスキーフリッツ・フォン・エリックビル・ミラーなどの強豪をはじめ、異能派のスカイ・ハイ・リーや日系レスラーのキンジ渋谷とも対戦した。
1960年代よりヨーロッパに活動の拠点を移し、イギリスのジョイント・プロモーションズではビル・ロビンソンアルバート・ウォールドイツではホースト・ホフマンレネ・ラサルテスと対戦〔。ギリシャアテネでは1965年ゼブラ・キッドとの試合も行われた。オーストラリアニュージーランドインドなど母国カナダと同じ英連邦の各国にも遠征して勇名を馳せ〔、パキスタンではアクラム・ペールワンで知られるボル・ブラザーズとも対戦。1967年5月29日にはロンドンウェンブリー・プールで行われたボル・ブラザーズの主催興行に出場したが、アクラムの兄アスラム・ペールワンに敗退した〔柳澤健・著『完本 1976年のアントニオ猪木』P366-367(2009年、文藝春秋、ISBN 4167753650)〕。
1968年9月、ヨーロッパからの提携ルートにより、アル・ヘイズ、初代ケンドー・ナガサキのミスター・ギロチンマーク・ロコの父親ジム・ハジーらイギリス勢と共に国際プロレスに初来日。11月開幕の第1回IWAワールド・シリーズにも残留参戦し、ビル・ロビンソンや豊登と優勝を争った。シリーズ中はピーター・メイビアジョン・ダ・シルバと組んで豊登&サンダー杉山のTWWA世界タッグ王座にも挑戦している。国際プロレスには1973年春にも再来日し、モンスター・ロシモフドン・レオ・ジョナサン、ホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクらと共に第4回IWAワールド・シリーズに出場。同ブロックのホフマンやストロング小林と対戦したが、決勝トーナメントには進めなかった。
その間、1969年10月には古巣のスタンピード・レスリングにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。以降、1970年代前半は再びカナダで活動し、AWAのテリトリーだった地元のウィニペグではイワン・コロフブッチャー・バションテキサス・アウトローズダスティ・ローデス&ディック・マードック)などのヒール勢と対戦。スタンピード・レスリングではキラー・トーア・カマタアブドーラ・ザ・ブッチャーと抗争し、1973年の上期はブッチャーの保持していた北米ヘビー級王座(自身も戴冠していたNWAカナディアン・ヘビー級王座の後継タイトル)に再三挑戦した。
キャリア晩年の1974年は、旧敵ジン・キニスキーの主宰するバンクーバーのNWAオールスター・レスリングにて、フラッシュ・ゴードンFlash Gordon)のリングネームで活動。1月28日にレオ・マドリルと組んでバック・ラムステッド&ミスターXからカナディアン・タッグ王座を奪取し、2月14日にはザ・ブルートを破りパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得した。
同年8月、ドイツでグスタル・カイザーが主催した世界選手権トーナメントに出場し、ニュルンベルクなどの都市でローラン・ボックと対戦。8月31日にミュンスターで行われた試合では、カイザーの要請でボックにシュートを仕掛け勝利を収めている〔『Gスピリッツ Vol.21』P7、P11(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)〕。この試合でゴーディエンコは足首を骨折したが、以降の両者は互いの実力を認め合う親友同士となった〔。ボックはゴーディエンコについて、自身のプロレスのキャリアにおける最強のライバルの一人であり、唯一のシューターであったなどと賛辞を呈している〔。
ヨーロッパではプロレスファンでもあったパブロ・ピカソとも邂逅し、セント・マーチンズ美術学校に通うなどして本格的に画家を志すようになり、1975年の引退後は移住先のイタリアで画家に転身〔。1990年に臀部の手術のためカナダに帰国してからも、バンクーバー島にて画家としての活動を続けた〔。
2002年5月13日悪性黒色腫のため死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・ゴーディエンコ」の詳細全文を読む




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