翻訳と辞書
Words near each other
・ ジルベール・コラール
・ ジルベール・シモンドン
・ ジルベール・ディエンデレ
・ ジルベール・デュクロラサール
・ ジルベール・デュクロ・ラサール
・ ジルベール・デュクロ=ラサール
・ ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット
・ ジルベール・デ・ラ・ファイエット
・ ジルベール・ド・ゴールドシュミット
・ ジルベール・ド・ラ・ファイエット
ジルベール・ベコー
・ ジルベール症候群
・ ジルボー
・ ジルマ・ルセフ
・ ジルマ・ロウセフ
・ ジルマ・ヴァーナ・ルセフ
・ ジルマール
・ ジルマール・ルイス・リナルジ
・ ジルミル駅
・ ジルモア針


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジルベール・ベコー : ミニ英和和英辞書
ジルベール・ベコー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジルベール・ベコー : ウィキペディア日本語版
ジルベール・ベコー[ちょうおん]

ジルベール・ベコーGilbert Bécaud1927年10月24日 - 2001年12月18日)はフランス歌手作曲家ピアニスト俳優。本名はフランソワ・ジルベール・レオポルド・シリー ''(François Gilbert Léopold Silly)''。実母の再婚相手の姓であり、実父の姓ベコー ''(Bécaud)'' をステージネームにした。パリオランピア劇場で33回も公演し、その精力的なパフォーマンスから「ムッシュ10万ボルト」と言われた。紺地に水玉模様のネクタイ、およそ400曲の楽曲、高揚すると手を耳に持っていくポーズで知られる。最も有名なヒット曲は「ナタリー ''(Nathalie)''」と「そして今は ''(Et Maintenant)''」である。
== 来歴 ==
ベコーはプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴァール県トゥーロンで生まれた。幼い頃からピアノ演奏を学び、後にニースの高等音楽院に通った。第二次世界大戦中の1942年、フランスの対独レジスタンスに加わるため学校をやめた。戦後の1948年モーリス・ヴィダラン ''(Maurice Vidalin)'' に出会い、彼に触発されて作詞作曲を始める。ベコーはマリー・ビゼー ''(Marie Bizet)'' に曲を提供するようになり、ビゼー、ベコー、ヴィダランはトリオとして成功し、その協力関係は1950年まで続いた。
ベコーはピアニストとしてジャック・パル ''(Jacques Pills)'' のツアーに同行した際、当時パルの妻であったエディット・ピアフに出会った。ベコーは1953年にピアフの勧めに従い「ぼくの手 ''(Mes Mains)''」や「十字架 ''(Les Croix)''」を自ら歌い始め、その翌年に歌手として初のステージを踏む。その後「闘牛 ''(La Corrida)''」(1956年)、「雨の降る日 ''(Le Jour où la Pluie Viendra)''」(1957年)、「''C'est Merveilleux L'amour''」(1958年) などのヒット曲を生んだ。
英語圏におけるベコーの最初のヒット曲は、1958年ジェーン・モーガン ''(Jane Morgan)'' がカバーした「雨の降る日 ''(Le Jour où la Pluie Viendra)''」だった。カール・スィグマン ''(Carl Sigman)'' が英語の歌詞を書き、「Days The Rains Came」としてリリースされた。同時期にベコーは俳優としての活動も開始した。初主演は1956年の『遥かなる国から来た男 ''(Le Pays D'où Je Viens)''』で、フランソワーズ・アルヌールと共演した。彼はカフェの内気なピアニストと、瓜二つで社交的なよそ者の二役を演じ、ピアニストとしての腕前を存分に披露した。
1960年にはフランス・ディスク大賞 (Grand Prix du Disque) を獲得し、クリスマス・カンタータ「''L'enfant à L'étoile''」を作曲した。同年、「神の思いのままに ''(Je T'appartiens)''」をエヴァリー・ブラザーズ がカバーした英語バージョンの「''Let It Be Me''」がヒットした。この曲は長年にわたりボブ・ディランニーナ・シモンエルヴィス・プレスリーウィリー・ネルソンジェリー・バトラー ''(Jerry Butler)''、ジェームス・ブラウン達がカバーしている。
1961年、ベコーはフランス音楽史上でも最大のシングル・ヒット曲の1つである「そして今は ''(Et Maintenant)''」をリリースした。曲は「''What Now My Love''」という英語バージョンに翻訳され、コニー・フランシスシャーリー・バッシーソニー&シェール ''(Sonny & Cher)''、エルヴィス・プレスリー、ジュディ・ガーランドアンディ・ウィリアムスフランク・シナトラなどがカバーしてヒットした。オペラ「''L'opéra d'Aran''」を書き上げた後、ベコーはヨーロッパツアーを行ない、その間も「''Tu le Regretteras''」などのポップ・ミュージックのレコーディングを継続した。
マレーネ・ディートリヒはベコーの「マリー・マリー ''(Marie, Marie)''」をレコーディングし、ステージでも歌った。
ベコーは1970年代はレコーディングよりツアーに集中し、若干の俳優の仕事をこなした後、1973年に疲労を理由にしばらく休養した。1974年レジオンドヌール勲章シュヴァリエの称号を与えられた。翌年、「小さな愛と友情 ''(Un Peu d'Amour et d'Amitie)''」(英語版のタイトル「''A Little Love And Understanding''」)がイギリスのシングルチャートでトップ10入りし、同国で唯一のチャート入りヒット曲となった。
ベコーはニール・ダイアモンドと「''Love on the Rocks''」を共作した。この曲は1980年の映画『ジャズ・シンガー』のサウンドトラックとして世界的にヒットし、ゴールデングローブ賞 主題歌賞にもノミネートされた〔Gilbert Bécaud , Nominations & Wins, goldenglobes.org〕。また1982年にはケベック人歌手のマルティーヌ・サンクレール ''(Martine St. Clair)'' のデビューにあたり、デュエット曲「''L'amour est Mort''」をレコーディングした。
1990年代に入ると、1993年にプロデューサーのミック・ラナロ ''(Mick Lanaro)'' と組んでアルバム『''Une vie comme un roman''』をBMGからリリースした。1994年に公開されたリュック・ベッソン監督の映画『レオン』の予告編の1つにベコーの曲「オレンジ ''(L' Orange)''」が使用された。1996年には長男のガヤ・ベコーと共作したアルバム『アンサンブル ''(Ensemble)''』を、1999年にはアンドレ・マヌキャン ''(André Manoukian)'' と組んでアルバム『''Faut faire avec...''』をEMIからリリースした。しかし1990年代は以前に比べるとベコーの活動は目に見えて停滞した。
2001年12月18日、ジルベール・ベコーはセーヌ川に浮かぶ自身のハウスボートで息を引き取った。死因は肺癌、74歳であった。彼はパリ、ペール・ラシェーズ墓地の45区画に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジルベール・ベコー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.