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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジレ・ミュラー(Gilles Müller, 1983年5月9日 - )は、ルクセンブルク・シフランゲ出身の男子プロテニス選手。2008年の全米オープンでベスト8に入った選手である。まだツアーの優勝はないが、シングルスで3度の準優勝がある。シングルス自己最高ランキングは34位(2015年2月)。身長193cm、体重92kgで、左利きの長身選手。ギル・ミュラーとも表記される。 == 来歴 == 5歳からテニスを始め、高校を卒業した16歳からフランスに留学する。ジュニア選手時代は、2001年のウィンブルドン男子ジュニアシングルス部門で準優勝した後、続く全米オープン男子ジュニアで優勝がある。 同年にプロ転向し、男子テニス国別対抗戦・デビスカップのルクセンブルク代表選手に選ばれた。男子テニスツアーの下部組織の大会を回っていた時期、2002年3月に日本の大阪でプレーし、2003年3月には京都でプレーしたことがある(ともに2回戦で敗退)。3年間の下積みを経て、2004年の全豪オープンで4大大会デビューを果たす。同年8月にアメリカ・ワシントンの大会で男子プロテニスツアーに初の決勝進出を果たしたが、レイトン・ヒューイットに 3-6, 4-6 で敗れた。この年も来日し、10月の「ジャパン・オープン」で準々決勝まで進出した。 2005年度の4大大会で、ジレ・ミュラーは立て続けに番狂わせを起こす。ウィンブルドンの2回戦では、先の全仏オープンで優勝したばかりのラファエル・ナダルを 6-4, 4-6, 6-3, 6-4 で破り、全米オープンでは1回戦で地元アメリカのエース、アンディ・ロディックに 7-6, 7-6, 7-6(3セット連続でミュラーがタイブレークを取った)で勝った。ウィンブルドンの終了後、7月下旬にアメリカ・ロサンゼルス大会で2度目のツアー決勝進出を果たしたが、アンドレ・アガシに敗れている。 2006年10月、ミュラーは世界ランキングトップ100から陥落してしまう。2007年全豪オープンでは、1回戦で2004年全仏オープン優勝者のガストン・ガウディオを破ったが、続く2回戦で第3シードのニコライ・ダビデンコに 4-6, 0-6, 3-6 で完敗した。2007年ウィンブルドン以後、彼は4大大会でもしばらく予選敗退が続いた。 2008年全米オープンで久々に予選会を通過したミュラーは、この大会でベスト8に進出し、ルクセンブルク出身のテニス選手として史上最高成績を出した。2回戦のトミー・ハース(ドイツ)、3回戦のニコラス・アルマグロ(スペイン)戦の2試合連続で、2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)からの逆転勝利を収めると、4回戦でも第5シードのニコライ・ダビデンコを 6-4, 4-6, 6-3, 7-6 で倒した。初進出の準々決勝では、第2シードのロジャー・フェデラーに 6-7, 4-6, 6-7 のストレートで敗れた。この活躍により、彼は2年ぶりに世界ランキング100位以内にも復帰した。2009年全豪オープンでも初の3回戦に進み、第8シードのフアン・マルティン・デル・ポトロ(アルゼンチン)に 7-6, 5-7, 3-6, 5-7 のスコアで敗れている。 2011年全米オープンでミュラーは4回戦に進出した。4回戦では第2シードのラファエル・ナダル(スペイン) に 6-7(1), 1-6, 2-6 で敗れ3年ぶりのベスト8進出は逃したが、2011年10月3日のランキングで自己最高の42位を記録している。 2012年7月のアトランタ・テニス選手権でミュラーは7年ぶりのツアー決勝に進出した。決勝ではアンディ・ロディックに 6–1, 6–7(2), 2–6 で敗れ初優勝を逃した。ロンドン五輪に初出場し、シングルス2回戦でウズベキスタンのデニス・イストミンに 7–6(4), 6–7(3), 5–7 で敗れた。 2015年全豪オープンで第13シードのロベルト・バウティスタ・アグート、第19シードのジョン・イスナーらを破り4回戦に進出。2月16日のランキングで自己最高の34位を記録した。ジャパン・オープンでもベスト4に入り、2015年の年間最終ランキングは38位であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジレ・ミュラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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