|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ロンド : [ろんど] (n) rondo, (n) rondo ・ 派 : [は] 1. (n,n-suf) clique 2. faction 3. school
ジロンド派(ジロンドは、)は、フランス革命のフランスの政治派閥の一つである。主な指導者は、ピエール・ヴェルニヨやブリッソー、コンドルセ、「ジロンド派の女王」の異名をもったマノン・ロランなど。 複数形でジロンダンともいう。 この名称はジロンド県出身者のブルジョワ階級が多数を占めたボルドー・ジャコバンクラブに所属する議員(ヴェルニョーら)を中核としたことに由来するが、革命当時に”ジロンド派”という名前は存在しなかった。歴史用語として定着したのは、1847年、ラマルティーヌの『ジロンド党史』が出版されて以降のことで、後世の後付である。 明確な党派ではなく、中流ブルジョワ、プロテスタントなどで結びついた穏健共和派諸派閥の集合体。しばしば連邦主義者とも言われた。 == 経緯 == === 初期 === もともとはジャコバン・クラブに属しており、1791年の立法議会の誕生にあわせて、同派の山岳派とともに民主派の勢力を形成した。 国王ルイ16世ら王家と亡命貴族(エミグレ)が画策する中、他ヨーロッパ諸国との開戦の気運が高まってくる。ジロンド派は、対外戦争を利用して国王の真意を明確にしようとし、主戦論を展開した。マクシミリアン・ロベスピエールが反戦論を唱えるが、1792年3月にジロンド派内閣が組織され(首班ブリッソー、内相ロラン、蔵相クラヴィエ、外相デュムーリェ)、同年4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告する。しかし、革命の余波が軍隊におよび、指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねた。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジロンド派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|