|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジローナ()は、スペイン・カタルーニャ州ジローナ県のムニシピ(基礎自治体)。ジローナ県の県都である。カスティーリャ語による表記は(ヘローナ)。自治体公式名称はカタルーニャ語名の。 == 歴史 == 最初にこの地域に住みついたのはイベリア人である。紀元前77年以降、グナエウス・ポンペイウスがアウグスタ街道沿いにオッピドゥムを建てた。そしてローマ人がジローナの元となる定住地ゲルンダ(Gerunda)を築いた。 新都市ゲルンダはサン・フリアン・デ・ラミス住民を再入植させ、ゲルンダは地域の中心地となり、都市を囲むローマ式の耕作地が作られた。ゲルンダは海から遠く離れた内陸の都市であったにもかかわらず、地中海に面したアンプリアスと良好な関係を持っていた。 初期のゲルンダにはタラゴナの首府司教座教会とともに、司教座教会があった。古いローマ帝国のくびきから脱して全てが廃墟となり、市民の数が減少したために、ゲルンダは過疎化が進んだ。 イスラム教徒侵攻が、ジローナに新たなイスラム教徒の力を引き寄せた。しかし、カロリング朝フランク王国の南下のために彼らの優勢は続かなかった。カタルーニャの歴史家ラモン・アバダルは、後のカタルーニャが誕生する過程の最初であるとみなしている。時が進むにつれ、ジローナがその重要性を実証していくからであるとする。 ジローナをイスラム勢力から奪還したカロリング朝は、この領土を地元貴族であるジローナ伯へ委ねた。ジローナ伯の本拠地たるジローナは、イスラムの脅威のさらなる困難な段階を克服し、国土回復を果たした。新たな城壁が都市の広場に設置され、都市を取り巻く城壁は拡張された。ジローナのユダヤ人社会の最も栄えた時期には、市にカバラの学校があった。当時のジローナのゲットーは、ヨーロッパ有数の保存状態の良いもので、現在も観光名所となっている。 1351年、アラゴン王及びバルセロナ伯のペラ儀典王は、王位継承予定者であるジュアン王子(のちのジュアン1世)にジローナ公位を授けた。この後、ジローナ公位はアラゴン=カタルーニャの君主位継承予定者に授けられる称号の一つとして定着した。 15世紀から17世紀にかけジローナは成長を続けた。市民は都市を守る城壁の小さな増幅、及び改良を実行していった。ジローナは、17世紀から18世紀までヨーロッパの幾度もの戦争が起こる中、フランス軍との最前線の地となった。 19世紀初頭、スペイン独立戦争の間、都市封鎖や戦闘でジローナは荒廃した。 1889年以降、ジローナは城壁南側の壁一方を壊すことが許可された。ジローナはこの時から現在の姿へと変わっていった。1939年2月4日、フランコ軍がジローナを占領した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジローナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|