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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジーン・バッキー(Gene Martin Bacque, 1937年8月12日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手(投手)。 == 経歴 == アメリカ・ルイジアナ州ラファイエットに生まれる。サウスウエスト大学卒業後、マイナーリーグ・3Aのハワイ・アイランダーズ(現在は解散)に在籍していたが、解雇されかかっていたところを、当時スポーツニッポンの記者で、阪神の藤本定義監督からの要請で調査に当たっていた有本義明の目に留まり、8月に入団テストを受けて合格し入団した。入団テストを受けた時のバッキーは球速はあってもコントロールがむちゃくちゃであったが、「磨けば光るかもしれない」という藤本監督の意向〔週刊ベースボール別冊[陽春号]『阪神タイガース60年史』、ベースボール・マガジン社、94ページ。〕で入団が決まった。背番号は4であった。 阪神入団当初はコントロールが悪かったが、に投手コーチの杉下茂による猛烈なトレーニングで下半身を鍛えられ、さらに小山正明のスライダーを研究することで制球力をつけた。上手、横手からの変幻自在な投法と得意のナックルボールを決め球として先発投手の仲間入りをし、小山がトレードで抜けた後村山実とともに二枚看板のエースとして活躍した。 1964年には、29勝9敗、防御率1.89の好成績を挙げ、最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれた。外国人選手が沢村賞を受賞するのはこれが初めてだった(日本国籍を置かない選手では現在でも唯一〔日刊スポーツ(大阪)2014年10月9日付〕)。バッキーの活躍でこの年の阪神はセントラル・リーグの優勝を果たした。同年の日本シリーズでは南海ホークスと対戦、第6戦でエースのジョー・スタンカと投げ合ったが0-4で敗れた。この年のシーズン200奪三振は、2014年にランディ・メッセンジャーが226奪三振を記録するまで、球団所属外国人投手の最多シーズン奪三振記録であった〔。 翌6月28日には読売ジャイアンツ相手にノーヒットノーランを記録した。まで5年連続で2桁勝利を続けていたが、同年9月18日の対巨人戦で、自身が投球した王貞治への危険球を巡って発生した騒動において、巨人の荒川博コーチと乱闘した際に右手の親指を骨折〔「先に手を出したのはアイツだ!」大荒れGT戦第3R 〕。このケガからの復活を目指し、翌に近鉄に移籍したが、球威は戻らず0勝7敗の勝ち星なしに終わり、スタンカと並んでいた外国人投手の通算勝利記録を更新できずに、同年現役を引退した〔これが最後とは夢にも思わず…バッキー2人目の100勝達成 〕。 引退後は高校あるいは中学校〔の教師を27年間つとめ〔、のち「阪神タイガースのオカネ」を元手にして牧場経営に携わった〔。2011年に妻を亡くし、牧場は息子に任せて故郷ラファイエットで引退生活に入っている〔。引退後もOB戦や仕事の関係でたびたび来日。王や荒川とも遺恨はなく、ともにセ・リーグで戦ったライバル同士として非常に仲がよい。2014年10月の日刊スポーツによるインタビューによれば、日本時代に受けた椎間板ヘルニアの手術箇所が最近になって痛み出し、長い距離の歩行が難しくなっているとのことである〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジーン・バッキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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