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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ムース・モロウスキー(Moose Morowski、本名:Stan Mykietovitch、1935年7月6日 - )は、カナダ・マニトバ州ウィニペグ出身の元プロレスラー。 現役選手時代はカナダを主戦場に、ヨーロッパ、プエルトリコ、トリニダード・トバゴ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどにも遠征。覆面レスラーとしても活動し、日本ではラッシャー木村と国内初の金網デスマッチを行ったドクター・デス(Dr. Death)、ザ・デストロイヤーの覆面世界一決定十番勝負に登場したジ・アベンジャー(The Avenger)の正体として知られる〔『THE WRESTLER BEST 1000』P269(1996年、日本スポーツ出版社)〕〔『忘れじの国際プロレス』P50(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。 == 来歴 == 1954年、地元のウィニペグにてデビュー。以降、ウィニペグのマディソン・レスリング・クラブを主戦場に、1957年から1966年まで同団体のタッグ王座を通算6回獲得〔。1968年よりスタン・ザ・ムース(''Stan the Moose'')を名乗り、スチュ・ハートが主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングに登場した〔。 翌1969年7月、このリングネームで国際プロレスに初来日。オックス・ベーカーと組んで豊登&ストロング小林が保持していたIWA世界タッグ王座に挑戦した。1970年7月には覆面レスラーのドクター・デス(''Dr. Death'')に変身して再来日し、7月18日に深谷にて、サンダー杉山のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。8月11日には苫小牧にてレス・ウォルフと組み、杉山&グレート草津に移動していたIWA世界タッグ王座に再挑戦した〔。9月開幕のシリーズにも残留参戦し、10月8日に大阪府立体育館において、ラッシャー木村と日本初の金網デスマッチを行った〔〔。 国際プロレスには、モンスター・ロシモフ、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソンの3強が参加した1971年3月開幕の『第3回IWAワールド・シリーズ』にもドクター・デスとして出場。シリーズ中は、4月20日に福岡市九電記念体育館にてサンダー杉山初の金網デスマッチの対戦相手を務め、5月6日には新潟市体育館にて木村と金網デスマッチで再戦している。5月9日の金沢大会では、バスター・マシューズとの覆面コンビで杉山&草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した〔。 1972年からはアメリカのNWA圏に進出し、ドリー・ファンク・シニアが運営していたテキサス州アマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区に参戦。ムース・モロウスキー(''Moose Morowski'')と改名し、同年12月に全日本プロレスに初登場。以降、中堅外国人選手として全日本に度々来日し、1973年10月6日には後楽園ホールにて鶴田友美の国内デビュー戦の相手を務めた〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P39(2002年、日本スポーツ出版社)〕。1974年9月の来日では再び覆面を被り、"復讐仮面" ジ・アベンジャー(''The Avenger'')なるマスクマンに変身、ザ・デストロイヤーの覆面世界一決定十番勝負第3戦の対戦相手に起用されている(10月5日に日大講堂にて、USヘビー級選手権試合として行われた)。アベンジャー名義では1981年3月開幕の『第9回チャンピオン・カーニバル』にも出場し、ジャイアント馬場からリングアウト勝ちを収めるなど「リーグ戦荒らし」となって活躍した〔。 この間、地元のウィニペグをサーキット・エリアとするAWAの興行にも出場しており、1976年にはコシロ・バジリ、バロン・フォン・ラシク、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル、ラリー・ヘニング、そして当時AWAに参戦していたペドロ・モラレスやピーター・メイビアと対戦。国際プロレスのワールド・シリーズでも共闘したピエール・ポワソンと組み、ガニア&ブランゼルのハイ・フライヤーズが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦した。 バンクーバーのNWAオールスター・レスリングではブラック・アベンジャー(''The Black Avenger'')を名乗り、1977年から1978年にかけてマイク・シャープらをパートナーに、ジェリー・モロー&エディ・モロー、ガイ・ミッチェル&エリック・フローリッチなどのチームを破ってカナディアン・タッグ王座を再三獲得。ジン・キニスキーやドン・レオ・ジョナサン、ダッチ・サベージ、ジミー・スヌーカとも対戦した。 1979年5月13日にはトロントのメープル・リーフ・レスリングにてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。キャリア晩年となる1980年代前半はヨーロッパを主戦場とし〔、ドイツやオーストリアでは同じカナダ出身のビッグ・ジョン・クインとタッグを組んだ。 1980年代中盤はベテランのジョバーとして、バンクーバーで開催されるAWAやWWFのハウス・ショーに単発出場し、マスクド・スーパースター、カウボーイ・ボブ・オートン、ジェイク・ロバーツらと対戦。AWAではミスター・サイトーと組んでロード・ウォリアーズとも試合を行った〔。 1984年にリタイアし、1994年にバンクーバー近郊のブリティッシュコロンビア州クロバデールにてレスラーとしての最後の試合を行った〔。引退後はボランティア業務に携わっている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムース・モロウスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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