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スタン・ハンセン(Stan Hansen、本名:John Stanley Hansen II、1949年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州ノックスシティ出身のデンマーク系アメリカ人。 日本で最も成功したといわれる外国人レスラーの1人。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。なお、現夫人は日本人で息子が2人いる〔日本をルーツに持つメジャーリーガーたち 〕。 == 来歴 == ウエスト・テキサス州立大学卒業後、プロフットボール球団のボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)、サンディエゴ・チャージャーズに入団するが、最終的に解雇され、故郷の中学校で教鞭を執った〔学生時に地理教師の資格を取得。〕。その頃、大学のフットボール部の先輩であった旧知のテリー・ファンクから声がかかり、プロレスにスカウトされた(当時ハンセンは教職の収入面に不満を持っており、スカウトに快諾した)。1973年1月1日、アマリロ地区にてプロレスラーとしてデビュー。同地区では若手時代のジャンボ鶴田やボブ・バックランドとも邂逅した。 以降、フロリダ地区などを転戦してキャリアを積んだ後、ミッドサウス地区でフランク・グーディッシュとのタッグチームで活動。1974年10月10日にUSタッグ王座を獲得し、初戴冠を果たす。その後、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラス地区を経て、1976年上期にWWWFに登場。同年4月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時のWWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(実際は後述のとおり、ハンセンがボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫であったが、ウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝された)で有名になった。この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。 日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。 サンマルチノ戦後の1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。同年秋の再来日からはシリーズの外国人エースを務め、9月2日に愛知県体育館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。9月29日には大阪府立体育館にてザ・ハングマンをパートナーに、坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦した。以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり、1979年のMSGシリーズではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日本プロレスのトップ外国人レスラーとなった。1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。その圧倒的な強さは当時の実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークのWWFに参戦。MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)。 1981年6月にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約〔『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol.8』P14 - P15(2015年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4-583-62269-9 〕、同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した〔なお、この試合中に場外でテリーにラリアットを食らわせKOさせたことで会場は騒然となり、試合後もザ・ファンクスに対し暴行を加え続けたため馬場が駆けつけた。この時に馬場が放ったチョップでハンセンが流血し、普段よりも数倍速く威力もあるものと判り、「馬場がキレた数少ない場面」として知られている。〕。ただしハンセンの移籍は秘密裏に行われており、当時の関係者やファンを非常に驚かせた(全日本と新日本は有名選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず、盟友ブロディに対してもハンセン本人が直接状況説明をした。そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった)。 全日本プロレスへの公式移籍後は馬場〔1982年2月4日の初の直接対決はプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。〕や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。また、ブロディと組んだ「ミラクルパワーコンビ」は圧倒的な強さを誇った〔このコンビは日本マットでピンフォール負けしたことが一度もない。〕。ミラクルパワーコンビと並行してロン・バスとのカウボーイ・タッグチーム「ラリアット・ライダーズ」を結成し、1983年4月12日にインターナショナル・タッグ王座も獲得している。ブロディとのコンビ解消後はテッド・デビアス、テリー・ゴディらを新パートナーに、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。 本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取。以後、サージェント・スローター、レオン・ホワイト、カート・ヘニング、デビッド・サンマルチノ、ジェリー・ブラックウェル、ニック・ボックウィンクル、リック・マーテル、長州力、ジャンボ鶴田らを相手に防衛を果たし、米国での地位も確かなものとした。またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。 1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日本vs全日本」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。以後6月まで、レンタルという形で再び新日本プロレスのリングに立ち、長州力とタッグを組んだほか、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士とも対戦している。 天龍、鶴田が去った後も、プロレス四天王の壁として強さを見せ続けた。チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した(2度とも決勝の相手は三沢光晴。なお、1992年は全勝優勝)。1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年(w / ベイダー)・1999年(w / 田上明)と、世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝を果たし、不沈艦健在を見せつけた。 両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われた。通常、全日本では選手が亡くなった時にしか10カウントゴングは鳴らさないが、ハンセンの功績を称えセレモニー中に異例の10カウント・ゴングが鳴らされた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。 引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め(後任は衆議院議員の馳浩)、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。2006年夏、2人の息子が日米親善高校野球大会に出場するのに伴い来日。遊撃手の兄、外野手の弟ともに右投げ両打ちであり、走攻守揃ったオールラウンダーである。ハンセン自身が指導して両打ちを教えた。 2008年にはIGFにウィットネスとしてドリー・ファンク・ジュニアと共に来日した。 2009年6月、2006年に来日した息子シェーバー・ハンセンがアメリカMLBのシアトル・マリナーズにドラフト6位指名され喜ぶが、数日後、三沢光晴の訃報を聞き「嬉しいことが数日前にあったのに、その直後になんて悲しいことが起こったんだ」と三沢の死を悲しんだ。 2010年3月27日には、アリゾナ州フェニックスにて開催されたWWE殿堂の顕彰セレモニーにおいて、殿堂入りを果たしたアントニオ猪木のインダクターを務めた。 2016年3月21日放送のRAWにおいて、 ハンセン自身のWWE殿堂入りが発表された。4月2日にテキサス州ダラスのアメリカン・エアラインズ・センターにて行われた式典では、日本とアメリカを股にかけて激闘を展開したベイダーがインダクターを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スタン・ハンセン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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