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セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(Sextus Julius Frontinus、紀元40年ごろ - 紀元103年)は、紀元1世紀後半を代表するローマ帝国の貴族の1人だが、後世には主にローマ水道などに関する技術書の著者として知られている。 == 経歴 == 紀元70年にプラエトルとなり、5年後にはブリタンニアに赴任しクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスからブリタンニア長官を引き継いだ。彼はシルレス族などのウェールズの敵対的部族を征服し、カエルレオンまたはイスカ・アウグスタに第2軍団アウグスタのための新たな基地を作り、15kmから20km間隔で小さめの砦のネットワークを築いた。そのような砦の1つがLuentinumにあり、Dolaucothiの金山の監督と、多数の用水路の運営を任されていた。紀元78年、ブリタンニア長官職をグナエウス・ユリウス・アグリコラに引継ぎ、帰国。 紀元95年、フロンティヌスは皇帝ネルウァの命により、ローマの水道長官 (''curator aquarum'') に任ぜられた。また、アウグルの一員にも任ぜられた。彼はローマの水道の状況について紀元1世紀末まで公式報告を出し続けた。出版された公式の技術調査報告としては初めてのものだった。 この面でのフロンティヌスの業績は、先人である政治家マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの業績を受け継ぐものだった。アグリッパは紀元前34年、マルキア水道の修復と配管の拡大を含む一連の公共設備の修理と改善を行った。紀元前33年にアエディリス(ローマの公共建築と祭儀の管理を行う役職)に選ばれてから行った一連の事業としては、通りの修繕、下水道の清掃と修復がある。アグリッパの特筆すべき業績としては、クロアカ・マキシマ(ローマの主な下水道)の拡張と修理、ポルチコ、公衆浴場の建設、庭園の造営などがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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