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セントローレンス湾方面作戦(セントローレンスわんほうめんさくせん、Gulf of St. Lawrence Campaign、ガスペ遠征とも呼ばれる)は、フレンチ・インディアン戦争中の軍事作戦である。 この作戦は、イギリス軍による、現在のニューブランズウィック、そしてセントローレンス湾沿岸のガスペ半島にある、アカディア人集落への奇襲作戦だった。海軍と陸軍の指揮官は、それぞれサー・チャールズ・ハーディと准将のジェームズ・ウルフであった。1758年のルイブールの戦いの後、両指揮官は、9隻の軍艦に分乗した1500人の部隊を率いてガスペ湾に向かい、9月5日に上陸した。そこから9月12日にミラミチ湾、9月13日にケベック州グランド=リビエールとパボス、9月14日にケベック州モンルイにそれぞれ分遣隊を送り込んだ。その後何週間かで、ハーディは4隻のスループ艦またはスクーナーを率いて、約200の漁船を壊し、200人ばかりを捕虜にした〔J.S. McLennan, Louisbourg: From its Founding to its Fall by , Macmillan and Co. Ltd London, UK 1918, pp. 417-423, Appendix 11〕〔http://www.archive.org/stream/louisbourgfromit00mcleuoft/louisbourgfromit00mcleuoft_djvu.txt)〕。 ==歴史的背景== 1710年のポートロワイヤル包囲戦の後、45年間以上にわたり、一部のアカディア人は、イギリス国王への忠誠のための誓文への署名を拒み、民兵として対イギリス軍事作戦に参加したり、フランスの砦であるルイブールやボーセジュールに補給を続けたりしていた〔John Grenier, Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710-1760. Oklahoma Press. 2008〕。フレンチ・インディアン戦争中、イギリス軍はアカディアの見せかけの武装勢力を打ち砕き、アカディア人を追放することで、ルイブールへの補給線を断つように努めた〔Stephen E. Patterson. "Indian-White Relations in Nova Scotia, 1749-61: A Study in Political Interaction."〕〔Buckner, P, Campbell, G. and Frank, D. (eds). The Acadiensis Reader Vol 1: Atlantic Canada Before Confederation. 1998. pp.105-106.〕〔Stephen Patterson, Colonial Wars and Aboriginal Peoples, p. 144.〕。 1755年にファンディ湾方面作戦が追放の第一波として起こった。この追放の間中、セントジョン川渓谷は、イギリス軍に対するアカディア人とアルゴンキン諸族の連合軍の拠点と化した〔Plank, p. 150〕。 民兵の士官であるシャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェトは、大勢のアカディア人をミラミチへと避難させた。1756年の夏に、最初の集団が到着した。1757年から1758年まで、ミラミチはノバスコシアのイギリス軍への対抗勢力遠征、そして、ルイブールのフランス軍への支援やルイブールへの物資補給の拠点となっていた。ミラミチで、アカディア人たちが最も早く移住した地域は、現在ウィルソンズポイントとして知られる場所一帯である〔http://www.pc.gc.ca/lhn-nhs/nb/boishebert/natcul/natcul2.aspx Boishébert and Beaubears Island Shipbuilding National Historic Sites, J. Leonard O'Brien Memorial〕。 ルイブールの戦いの後、アカディア人追放の第二波が始まった。セントジョン川方面作戦とプティクーディアク川方面作戦に、ロバート・モンクトンが派遣され、セントローレンス方面湾作戦にはウルフが派遣された。この作戦では、イギリス軍はケベックの包囲を想定しており、それに邪魔が入らぬよう、ガスペ湾からすべての物資補給船を駆逐したがっていた〔From Life of General the Honourable James Murray by R. H. Mahon, p. Page 70〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セントローレンス湾方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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