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クレイジー・ホース(Crazy Horse (Tasunka witko) , 1840年? - 1877年9月5日?)は、インディアン部族のラコタ・スー族の一支族、オグララ族に属するパヤブヤ族の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。 == 人物 == タシュンケウィトコ、通称クレイジー・ホースは1840年頃に、現在のサウスダコタにあるベア・ビュット近くのベル・フーシェ川のそばで生まれた。クレイジー・ホースと親しかった「ホーン・チップス」、または「エンコーラジング・ベアー」という名のスー族の呪い師は、スー族がショーショーニー族から大量の馬を盗んだ年が、クレイジー・ホースが生まれた年だと考え、証言したので、彼の誕生年は「1840年」ということになっている。しかし実際は、この「大襲撃」は、1841年の出来事である。 父親(1810年生)はオグララ・スー族の呪い師で、戦士ではなかった。その治癒術が非常に評判がよく、戦士である必要がなかったのである。母親ラトリング・ブランケット・ウーマン(1814年生)はシチャング(ブルーレ)・スー族だった。彼は幼い頃からシチャング族やシャイアン族のキャンプを出入りしていた。 彼の名は正式には「タ・シュンカワカン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)」である。略して「タシュンケ・ウィトコ」と呼ばれることが多い。 幼児期は「くせ毛」と呼ばれていた。「タシュンケ・ウィトコ」は代々受け継ぐ名であり、手柄を立てればこの名が譲られた。彼の父も、この名が譲られるまでは「ワグルラ(みみず)」という名だった。息子にこの名を譲った後、彼の父はまた「みみず」という名に戻った。 少年時代から馬を盗む(インディアンにとっての栄誉あるスポーツである)のが非常に上手く、「ヒズ・ホーシズ・ルッキング(彼はすぐれた馬の見立てだ)」という名で呼ばれていた時期がある。 彼自身は、部族の儀式やしきたりに興味を持たず、参加もしなかった。同じインディアンの仲間からも常に距離を置き、「一匹狼」の姿勢を貫いた。放浪癖があり、しばしば姿を消し、瞑想に耽った。白人と接することを非常に嫌い、このため写真に写ることもなかった。彼の肖像は残されていない。が、その肌の色は非常に明るく、小柄だがハンサムだったという。少年時代の親友たちは、彼を「肌の明るい少年」と呼んでいた。 友人のスー族戦士ショート・バッファローは、クレイジー・ホースについて、「背は高くなく、またそれほど低くもなかった。太っても痩せてもいない。彼の髪の色は非常に明るく、顔色も他のインディアンよりずっと明るかった。顔の幅は広くはなく、高く鋭い鼻を持っていた。彼の黒い目は人をまっすぐ見ることはほとんどなかったが、何者をも見逃さなかった」と語っている。 白人との戦いが激化し、「皮シャツを着る者」を選ぶ儀式が復活したとき、この名誉ある地位に任ぜられた四人の戦士のひとりとなった。が、これ以外に正式な地位にあったことはない。ひとつには、彼の家柄が部族の中では名門ではなく、また名門家のレッド・クラウドと反目しあう関係だったことがある。が、白人との妥協を拒む主戦派として主要な立場にあった。ちなみに、完全な個人主義であるスー族の文化には、戦法を誰かが指示するような「戦争指導者」という立場はない。 レッド・クラウドの姪であるブラック・バッファロー・ウーマン(ウィンヤン・ワカン・サパ)に恋焦がれていたが、レッド・クラウドは彼女をクレイジー・ホースの友人ノー・ウォーターと結婚させた。その後もクレイジー・ホースの想いは止まず、今で言うストーカー行為をしていた。 1870年、クレイジー・ホースは彼女と駆け落ちをしたが、ノー・ウォーターは彼らを追い、その日の晩には彼らを見つけ、二人が寝ているティーピーに押し入って、クレイジー・ホースの心臓目がけて銃を撃った。このとき、友人のタッチ・ザ・クラウドがとっさにノー・ウォーターを押さえたので弾は逸れて上顎に当たり、クレイジー・ホースは大怪我を負った。完全個人主義のスー族では、女性が離婚するのはまったくの自由であり、ノーウォーターのこの行いは、スー族のしきたりを破るものである。長老たちはノー・ウォーターに賠償として馬を三頭クレイジー・ホースに譲らせ、またクレイジー・ホースも「皮シャツを着る者」の職を解任された。ブラック・バッファロー・ウーマンの4番目の娘は、非常に肌の色が明るく、恐らくクレイジー・ホースの子と思われる。 そののち、部族のとりなしでブラック・ショールという女性を妻に娶る。彼女は結核に罹り、彼女を親切に治療したヴァレンタイン・マクギリカッディ博士とは、白人としては例外的に友交を結んだ。マクギリカッディはクレイジー・ホースを看取った医者となった。また後に保留地監督官に任ぜられ、スー族を苦しめることとなる。 彼女との間に「ゼイ・アー・アフレイド・オブ・ハー(They Are Afraid of Her)」という娘をもうけたが、幼くしてコレラで亡くし、失意の中しばらく戦の場から離れる。二人目の妻には、ネリー・ララビーというシャイアン族とフランス人の混血女性を迎えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クレイジー・ホース」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Crazy Horse 」があります。 スポンサード リンク
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