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トゥンク・ムハンマド・ダウド・ブルエ(Teungku Muhammad Daud Beureu'eh、1899年9月17日 - 1987年6月10日)は、インドネシアのウラマー、軍人およびアチェ州の独立を目指した「アチェ・イスラム共和国」の指導者。日本語資料によっては「ダウド・ブレエ」の表記も見られる。 == 対オランダ独立運動 == 20世紀初頭、オランダ領東インドでは現地民の生活改善およびオランダ製品の購買力向上を目的とした倫理政策が導入され、現地民の教育水準向上の役割がマドラサに求められた。こうした中、ダウド・ブルエは1939年5月5日に全アチェ・ウラマー同盟(PUSA)を設立し、議長に就任。それまでの宗教教育と普通教育の統合を目指し、オランダ領東インド全域に組織が拡大した結果、PUSAはオランダに対する独立運動を展開するようになった。 1942年、日本軍の進攻の際にF機関の増淵佐平と会談し、日本軍への協力を約束した〔『東南アジア 歴史と文化(5)』P134。〕。軍政当初は、オランダ統治時代に植民地官吏として重用されていたウレーバランに主導権を握られていたが、司法制度改革を経てウレーバランの影響力を排除し、1945年1月20日にアチェ州回教興亜協力会(Maebkatra)の宗教部長に任命され、独立準備調査会・独立準備委員会のアチェ州代表委員の1人に選ばれた〔『東南アジア 歴史と文化(5)』P140〜P142。〕。また、7月3日には増淵機関の機関員となり、諜報活動に従事した〔『東南アジア 歴史と文化(5)』P142。〕。 1945年12月4日、武装解除した日本軍の武器を奪取したPUSAとウレーバランの間で衝突が発生し、ダウド・ブルエはこれを契機にピディの実権を掌握した〔『東南アジア 歴史と文化(5)』P142〜P143。〕。翌1946年1月13日に衝突が終結し、ピディのウレーバランの大半が処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダウド・ブルエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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