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チェット・アトキンス(Chester Burton Atkins、1924年6月20日-2001年6月30日)は、アメリカのギタリスト。基本的にはカントリー・ミュージシャンだが、ジャズやブルースからの影響も吸収し、また、後のロック・ギタリスト(ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ハウ等)にも大きな影響を与えた。生涯において、13作品(他アーティストとの連名も含む)でグラミー賞を受賞し〔Chet Atkins>Awards (allmusic.com) 〕、1993年にはグラミー賞の生涯功労賞も受賞〔Grammy Lifetime Achievement Award 〕。 2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第21位。 == 来歴 == テネシー州ラットル生まれ。父はヴァイオリンやピアノを弾け、母違いの兄もギターを弾けることもあり、チェットも早くから音楽に目覚めていった。最初はウクレレを始め、やがてギターに転向。しかし、少年時代は喘息を持っていたため、父と共にジョージア州に移る。 1939年、マール・トラヴィスやレス・ポールというギタリストの演奏をラジオで聴き、衝撃を受けたチェットは、我流でマスターしようとする。そのことが、チェット独特のピッキング・スタイルの元となっていった。そのため、デビュー当時は「マール・トラヴィスの真似事」と批判されたこともある。 ハイスクール卒業後は、ラジオ番組でギタリストとしての仕事を得る。この頃、クラシックのアンドレス・セゴビアや、ジャズ畑のジャンゴ・ラインハルトを知り、影響を受けていった。 1946年、初めてシングル・レコードを発表。ほどなくRCAビクター(後のRCAレコード)と契約し、チェットの黄金時代に繋がっていく。1947年、シカゴにてRCAビクターとして初めてのレコーディングを行なったがリリースされなかった。同年、RCAとしていくつかのラジオ番組に出演したが、テネシー州ノックスビルに転居してホマー&ジェスロと共にラジオ局WNOXにて土曜の新番組『''The Tennessee Barn Dance'' 』および人気番組『''Midday Merry Go Round'' 』に出演するようになった。1949年、WNOXを離れ、ジューン・カーター with マザー・メイベル&ザ・カーター・シスターズに参加し、ミズーリ州スプリングフィールドのラジオ局KWTOに出演するようになった。長く活動してきたカーター・ファミリーは母メイベル・カーターとその娘たちジューン、ヘレン、アニタを中心に活動するようになっていた。アトキンスを含むこのグループはすぐに『グランド・オール・オープリー』からの興味を惹き、1950年代中期、グループはテネシー州ナッシュビルに転居した。アトキンスはレコーディング・セッションを始め、WSMや『オープリー』で演奏するようになった〔Atkins, Chet and Neely, Bill. (1974). "Country Gentleman". Chicago. Harry Regnery Company. ISBN 0-8092-9051-0.〕。1950年代、アトキンスは『オープリー』のメンバーとなった。 アルバム『A SESSION WITH CHET ATKINS』(1954年)が高く評価され、1955年にはシングル「Mister Sandman」がカントリー・チャートの13位にランク・イン。これによりチェットは大きな名声を得た。また、自己名義での活動以外にも、スタジオ・ミュージシャンとしても活動。エルヴィス・プレスリーの大ヒット曲「ハートブレイク・ホテル」や「ハウンド・ドッグ」でリズム・ギターを演奏したのに加えて、ハンク・ウィリアムスやエヴァリー・ブラザース等のセッションにも参加した〔Experienced, to Some Degree : Chet Atkins, CGP, Still Picks His Spots in a Career That's Been Anything but Abbreviated - Los Angeles Times - article by Mike Boehm - 2015年2月16日閲覧〕。 チェット・アトキンスの独自の奏法による逸話として『ヤンキードゥードル・ディキシー』がある。チェットはコンサート会場でリクエストを受け付けたが、「『ヤンキードゥードゥル(アメリカ独立軍歌)』を演ってほしい」という客と「『ディキシー(南北戦争時の南軍の軍歌)』を演ってくれ」という客が争いになってしまった。チェットは「では2曲同時に弾きましょう」と言い、2つのまったく別の曲を同時に弾いて見せた。後にレコーディングされ、4曲入りEPのB面に収録された(独自のアレンジを加えており、さらに2曲とも作者不詳だったため、作曲者としてチェット・アトキンスの名前が載っている)。 1965年、日本で行われたパッケージ・ツアー「ポップ&カントリー・フェスティバル」に参加〔東京グランド・オール・オープリーの時代 - J.T. Kanehira - 2015年2月16日閲覧〕。 ジェリー・リードとの共演作『ME & JERRY』(1970年)は、グラミー賞ベスト・カントリー・インストゥルメンタル部門を受賞。1973年には、日本歌曲のカバー・アルバム『日本の詩(DISCOVERY JAPAN)』を発表。『CHESTER AND LESTER』(1976年)は、チェットにとって憧れの存在であったレス・ポールとの連名のアルバムで、同作もグラミー賞受賞に至った。 1979年、品質改善が見込めないとしてグレッチとのエンドーズ契約を解消する。以降はギブソン製のギターを使用する。ギブソン契約前にはフェンダーなどの他社のギターも使っていた(チェットがソリッドボディのギターを弾くのは非常に珍しい)。 1982年、長年籍を置いてきたRCAレコードを去り、コロムビア・レコードに移籍。その後も精力的な活動を続ける。1990年にはマーク・ノップラーとの連名でアルバム『ネック&ネック』を発表。 2001年6月30日、癌のためナッシュビルで死去。 2002年、ロックの殿堂のサイドマン部門を受賞〔Chet Atkins: Inducted in 2002 | The Rock and Roll Hall of Fame and Museum - 2015年2月16日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェット・アトキンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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