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チェトニック(セルビア・クロアチア語:Četnik、キリル文字表記、英語:Chetnik、複数形:チェトニツィ、Četnici、、Chetniks)は、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。名称はチェトニクとも表記されるが、以下「チェトニック」で統一する。 == 概要 == 1941年4月6日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは国防軍の大部隊でユーゴスラビアを攻撃し、瞬く間に占領した。ユーゴスラビア正規軍は10日程度で壊滅したものの、民衆による抵抗がこれに代わった。当初、ユーゴスラビアに抵抗組織は2つ存在し、1つがヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア共産党を中心とする「人民解放パルチザン部隊総司令部」(通称パルチザン部隊)、もう一つが本項で詳述するユーゴスラビア王国軍で降服を拒否したセルビアの将兵達が結成した「チェトニック」である。 File:General Mihailovic with US Officers.jpg|米軍関係者と談笑するミハイロヴィッチ(1944年) File:Chetniks and Germans in Podgorica 1944.jpg|ドイツ軍とチェトニック(1944年) チェトニックは軍事抵抗組織であり、その思想信条は19世紀にトルコと戦ったセルビア・ゲリラに因んでつけられた名称から分かるように、徹底した大セルビア主義、反共主義であった。 指導者ドラジャ・ミハイロヴィッチに率いられ蜂起したチェトニックだが、一方でユーゴスラビア王国軍の負の面を有していた。山岳地帯でのゲリラ活動が主であったにも拘らず、平地での正規戦用の戦略や戦術を重視しており、軍の構成や部隊編成も当然ながらその域を出なかった。また早い時期から内部が腐敗に染まり、規律にも欠け、不正規戦の遂行に欠かせない筈の地元住民の支持を得られなかった。 実際の軍事行動でも徹底的な掃討を仕掛けられるのを恐れてか本来の敵たる枢軸軍と積極的に戦おうとせず、同じユーゴスラビア系のクロアチア独立国の部隊と終りなき凄惨な戦闘を繰り返していた。さらにイギリスから支持されていたユーゴスラビア亡命政府の「反乱(パルチザン部隊の事)は許されるべきでない」という方針の下に、チェトニックと同じく枢軸側に対し武装抵抗を行っていたはずのチトーのパルチザン部隊と敵対し、攻撃を仕掛けていた。米英と協調していたソ連も亡命政府に肩入れし、チェトニック支援に回り、チトーのパルチザン部隊に対してはチェトニックとの統一すら迫った。 上述の通りチェトニックはユーゴスラビア亡命政府から強い支持を受けていたが、1941年11月からはナチスとその傀儡勢力であるセルビア救国政府と協力関係に入り、チトーのパルチザン部隊と戦った。しかし、1943年9月にイタリアが降伏すると勢力的に衰退の一途を辿り、翌年には連合国からの支援も打ち切られ1945年5月に崩壊。指導者であるミハイロヴィッチは崩壊後逃亡するが、1946年3月に逮捕され、処刑された。 File:Čitanje_presude.jpg|裁判にかけられるチェトニック指導部 (一番左の人物がミハイロヴィッチ) File:Draža pred sudom.jpg|法廷でのミハイロヴィッチ File:Draža Mihailović i Dragi Jovanović.jpg|救国政府政権下のベオグラード市長だったと チェトニックが行った枢軸軍への抵抗といえば、補給路を断ったり攪乱させる程度の破壊工作のみであり、対照的にクロアチア人とムスリムを(SSでさえ問題視するほどの残忍な手口で)徹底的に虐殺した。犠牲者数はチェトニックによれば、クロアチア人約20万7000人、ムスリム約8万6000人である。 なお、1990年代に勃発したユーゴスラビア紛争時のセルビア人民兵のなかには上記の民族主義の思想的系譜を再評価、引き継いだものとして「チェトニック」を自称する組織もあり、今日でもセルビア・スルプスカ共和国を除く旧ユーゴ諸国はじめ各国で警戒されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェトニック」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chetniks 」があります。 スポンサード リンク
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