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褚 民誼(ちょ みんぎ)は中華民国の政治家、外交官、医者。国民党員として国民政府に参加し汪兆銘の腹心の1人であった。後に南京国民政府に参加し要職を歴任した。原名は明遺。字は重行。 == 事跡 == === 欧州での活動 === 士大夫の家柄に生まれる。父の褚吉田は、名医として評判があった。褚民誼は最初旧学を学んだが、後に英語や理数系の学問に親しんだ。1903年(光緒29年)、日本へ留学し、日本大学で政治経済学を学ぶ。この時、革命思想に傾倒し、1906年(光緒32年)、同郷の張静江とともにフランスへ向かう途中のシンガポールで、中国同盟会に加入した。フランスでは、呉敬恒(呉稚暉)・李石曽・蔡元培らとともに中国印書局を創設している。『新世紀月刊』『世界画報』などの刊行物を発行して、革命思想の宣伝に努めた。 1911年(宣統3年)11月、褚民誼は、辛亥革命により革命派が掌握した上海に戻る。この時、黄興の紹介により、汪兆銘・陳璧君夫婦と知り合った。褚は、陳璧君の義妹である陳舜貞と結婚している。1912年(民国元年)4月、褚は同盟会本部駐上海機関部の総務長に就任した。しかし、まもなく宋教仁が国民党に改組すると、これに失望してベルギーに留学する。ブリュッセル自由大学で学んだ。 その後、1915年(民国4年)に、袁世凱打倒活動のため一時帰国した。まもなく欧州に戻り、フランスで蔡元培・汪兆銘らと「華法教育会」を立ち上げ、中国人留学生の支援組織とした。1920年(民国9年)、呉敬恒・李石曽らとリヨン中法大学を創設した。褚自身は、同年にストラスブール大学で医学を学ぶ。1924年(民国13年)、医学博士号を取得した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョ民誼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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