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ティッチボーン事件(ティッチボーンじけん、英: Tichborne case)は、ヴィクトリア朝時代の1860年代から1870年代にイギリスで起こった事件。 海難事故で行方不明となっていた準男爵家の相続人として名乗り出た人物の正統性をめぐり、当時の社会に一大センセーションを巻き起こした。 == 概要 == ティッチボーン家はノルマン・コンクエストの頃からハンプシャー州オールズフォード付近に領地を持つ、カトリック信徒の旧家だった。1621年に準男爵位を得た〔McWilliam 2007, pp. 5–6〕。 1862年6月に10代準男爵ジェイムズが亡くなったとき、本来は長男のロジャー(Roger Charles Doughty Tichborne, 1829年 - ?)が称号と財産を相続するはずだったが、ロジャーは1854年に南アメリカ沖で海難事故に遭い死んだものと信じられていたため、弟のアルフレッド(1839年 - 1866年)が相続した(アルフレッドの浪費癖により、ティッチボーン家は領地ティッチボーン・パークから立ち退き、賃貸に出した)。 未亡人でありロジャーの母であるレディ・ヘンリエッタ・ティッチボーン(? - 1868年)は、ロジャーの乗っていた船から生存者が救助されてオーストラリアに運ばれたという未確認情報や占い師の助言により、息子の死を信じず、オーストラリアの新聞各紙に情報を求める懸賞金つき広告を大々的に打った。この広告には、遭難経緯の詳細情報と、ロジャーの外見(「華奢な体格でかなり背が高く、明るい茶色の髪と青い目」)について書かれていた。 1865年10月、ニュー・サウス・ウェールズのウォガウォガで肉屋を営むトマス・カストロなる男性が、自分がロジャーであると名乗り出た。のちに「主張者」(''the Claimant'')と広く呼ばれるようになるこの人物は、シドニーでティッチボーン家の元使用人2人(庭師だったマイケル・ギルフォイルと、第9代準男爵エドワード(1872年 - 1853年)の召使いを長年務めたアンドルー・ボーグル)と面会して、自らの主張を納得させた。また、レディ・ティッチボーンと熱心に文通を行なった。 1866年12月、ヨーロッパに到着した主張者は、パリでレディ・ティッチボーンと面会した。ロジャーが華奢でフランスなまりの強い英語を話す人物だったのに対し、主張者は100kgを超える肥満体の中年男で、振る舞いは洗練されておらず、フランスなまりもなく、そのほかの記憶も不正確であった。にもかかわらず、未亡人は彼がロジャーであると認め(同年2月にアルフレッドが死去したことにも影響されていたといわれる)、年1000ポンドの金を与えることにした。 未亡人とともにイングランドに渡った主張者を、何人かはすぐにロジャー本人だと認めた。その中にはティッチボーン家の事務弁護士エドワード・ホプキンスや、かかりつけ医師のJ・P・リプスコム、ロジャーの陸軍時代の当番兵トマス・カーターや同僚たちがいた。また、主張者はロジャーの年少期のディテールについて、いくつか正確な記憶(フライフィッシングの道具など)も披露した。 しかし、未亡人を除くティッチボーン家のほぼ全員が、詐欺師ではないかと懐疑的だった。主張者はボーグルやその他の情報源から、一家についての情報を得たのだろう、と考えたのである〔Woodruff, p. 66〕。アルフレッドの没後は、その幼い息子ヘンリー・アルフレッドが相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティッチボーン事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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