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ティト・サンタナ(Tito Santana、本名:Merced Solis、1953年5月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州出身のメキシコ系アメリカ人。 元WWFタッグ王者、元WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王者(それぞれ2回に渡って獲得)。1980年代から1990年代前半にかけてのWWF)では、スピーディーでクリーンなレスリングを身上とした甘いマスクのベビーフェイスとして女性の観客からの声援を集めた。 == 来歴 == ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンらを輩出したウエスト・テキサス州立大学の出身。大学時代はアメリカンフットボールで活躍、同期のチームメイトにはテッド・デビアスやタリー・ブランチャードがいた〔。 卒業後はNFLのカンザスシティ・チーフスのトレーニング・キャンプに参加し、その後CFLのBCライオンズに入団するが〔、1977年、大学の先輩であるザ・ファンクスのトレーニングを受けてプロレスラーとしてデビュー〔『THE WRESTLER BEST 1000』P216(1996年、日本スポーツ出版社)〕。テキサス州アマリロ地区のNWAウエスタン・ステーツ・スポーツでキャリアを積み、1978年10月には全日本プロレスに初来日している(経緯は不明だが、リッキー・スティムボートの本名「ディック・ブラッド」の名義で来日した〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P59(2002年、日本スポーツ出版社)〕)。 1979年下期、ティト・サンタナのリングネームでWWFに登場。10月22日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、イワン・プトスキーと組んでバリアント・ブラザーズ(ジョニー・バリアント&ジェリー・バリアント)を破りWWFタッグ王座を獲得した〔。同王座は翌1980年4月12日にワイルド・サモアンズに奪取されるが、1980年代期待の新星として注目を浴びることとなった。 王座陥落直後、4月25日より開幕した新日本プロレスの第3回MSGシリーズに来日〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P53(2002年、日本スポーツ出版社)〕。予選トーナメントで敗退し決勝リーグ進出は果たせなかったものの、そのフレッシュなファイトスタイルで高評価を獲得した(戦績は、トーナメント1回戦でスタン・ハンセンに敗退。敗者復活戦では1回戦でジョニー・パワーズから勝利を収めるも、2回戦でストロング小林に敗れた)。 1981年から1982年にかけてはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦。スティーブ・オルソノスキーやレイ・スティーブンスをパートナーに、ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦している。同時期にWWFからAWA入りし、人気が急上昇していたハルク・ホーガンともタッグを組んで活躍した。 1983年4月、WWFと再契約。1984年2月11日にはドン・ムラコからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取〔。以降、アイアン・シーク、ポール・オーンドーフ、マスクド・スーパースター、アレックス・スミルノフ、タイガー・チャン・リー、デビッド・シュルツ、マイク・シャープなどの挑戦を退けた。同年9月24日にグレッグ・バレンタインに敗れて一旦王座を失うが、1985年7月6日に奪還〔。ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートン、ジェシー・ベンチュラ、ミッシング・リンク、テリー・ファンクらを相手に防衛を続け、1986年2月8日にランディ・サベージに王座を明け渡すまでIC王者として活躍した。 その後もWWFに定着し、1987年にはリック・マーテルとの二枚目タッグチーム、ストライク・フォース(Strike Force)を結成。同年10月27日、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を破りWWFタッグ王座への2度目の戴冠を果たす〔。1988年3月27日のレッスルマニアIVでデモリッション(アックス&スマッシュ)に王座を奪われてからもコンビを継続させるが、翌1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(アーン・アンダーソン&タリー・ブランチャード)戦の同士討ちでマーテルがヒールターン。チームは自然消滅し、以降マーテルとの元パートナー同士の抗争を展開する。同年10月14日のキング・オブ・ザ・リングでは決勝戦をマーテルと争い、優勝を飾った。 1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットに出場。10年振りの来日を果たし、ジミー・スヌーカと組んで渕正信&小橋健太から勝利を収めた。1991年1月にはWWFと提携していたSWSにも参戦している。同年からはメキシコの闘牛士をイメージしたギミック、エル・マタドール(El Matador)に変身。並行してWWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも兼任した〔。 1993年、10年間に渡って在籍したWWFを離れ、初期のECWに参戦。同年8月8日、WWF時代の宿敵ドン・ムラコからECW世界ヘビー級王座を奪取した。その後もインディー団体を転戦し、1994年にはイリノイ州シカゴのAWFでカウボーイ・ボブ・オートンを破りAWFヘビー級王座の初代チャンピオンとなった。2000年1月10日にはWCWのマンデー・ナイトロに登場し、ジェフ・ジャレットと対戦している。 2004年、WWE殿堂入り(インダクターはショーン・マイケルズ)〔。近年は、アイゼンハウアー・ミドル・スクールにてスペイン語の教員をフルタイムで務めるかたわら、時折インディー団体の試合に出場している。 2010年11月15日、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演、久々にWWEに登場した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティト・サンタナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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