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ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(、244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、キリスト教に対しては「最後の大迫害」と呼ばれる弾圧を加えた。 == 生涯 == ダルマティア属州の属州都サロナの生まれ〔Barnes, New Empire, 30, 46; Bowman, "Diocletian and the First Tetrarchy" (CAH), 68.〕。「ディオクレティアヌス」というのは皇帝になる際につけた名で、本来はディオクレス(Diocles)という。一兵卒から親衛隊長官にまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。 当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで、軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。 292年、それぞれの皇帝が「正帝」(アウグストゥス)として「副帝」(カエサル)を任命し、彼らにライン川とドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。この制度はテトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ、帝国は事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。だがこの制度は、ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため、彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。 298年ペルシアと講和、メソポタミア地方、ティグリス河彼岸一帯をペルシアからローマの統治下へ繰り入れ、イベリア地方を影響下に置く。 ディオクレティアヌスは、皇帝権と帝国防衛を強化するため、自らの軍事力を増強し、課税強化を図って官僚制を整備した。合わせて、属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。これ以降の帝政を、こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造からドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで、属州の自立はおさえられた。この軍政と民政が分離する構造は東ローマ帝国にも受け継がれ、7世紀のイスラーム勢力侵入に合わせて軍管区制が導入されるまで続いた。 ディオクレティアヌス以降のローマ帝国における市民に課される税は、ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。土地・人口の調査が行われ、人頭税(ユガティオ)と土地税(カピタティオ)が導入された。この2つは後に結びついてカピタティオ・ユガティオ制へと至った。その他、最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など様々な経済政策が打ち出された。 ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱いた。また、キリスト教徒が皇帝崇拝を認めていなかったことも彼を怒らせていた。 そして、303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発した。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、その聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収となった。それはかつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたという。また、その報復として、キリスト教徒によって2度にわたり宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は、このことを「最後の大迫害」と呼ぶ。 305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ近郊のアスパーラトス(現在のスプリト)にディオクレティアヌス宮殿を作って隠棲し、311年12月3日にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない(ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディオクレティアヌス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Diocletian 」があります。 スポンサード リンク
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