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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ディスコード・レコード(Dischord Records)は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のインディー・レコードレーベルである。1980年に、高校生バンドであったティーン・アイドルズが活動記念のEP盤を出した収益でワシントンD.C.周辺の知り合いのパンクバンドのレコードを製作するレーベルとして立ち上げ。USハードコアの重要な中心の一つとしてD.C.をアメリカ全土のアンダーグラウンドに知らしめた後、1980年代末以降はフガジを擁しUSインディー・シーンを代表する最重要レーベルの一つとして世界的に影響をもつようになったが、ワシントンD.C.周辺の知り合いのバンドのみをリリースするという原則は25年以上にわたって貫かれている。配給は、ジョン・ローダー(1946-2005)の個人レーベルであった英サザン・レコード。 ==経緯== ティーン・アイドルズの解散後、宗教上の理由で音楽活動をやめたメンバーを除く、イアン・マッケイ、ジェフ・ネルソン、ネイザン・ストレイチェクの3人は、バンドの貯金600ドルを投じた自主制作盤EPの資金が回収できた段階で他のD.C.地域のハードコア・バンドのレコードを自主製作することを決める。当面の目標は、マッケイとネルソンがはじめたマイナー・スレットの音源製作であったが、マッケイの友人であったヘンリー・ガーフィールドは、Voのライル・プレスラーをG担当としてマイナー・スレットに引き抜かれたThe Extortsに参加しステート・オブ・アラートを結成、自分の貯金を投じてディスコード・レコード#2となるEP盤をリリースする。1981年にはこのほか、マイナー・スレットのEP2作品、ストレイチェクのユース・ブリゲード、ジョン・スタッブのGIsと、計EP5作品のリリースとなるが、ガーフィールドはブラック・フラッグに参加、親のヴァンを無断借用して計画したUSツアーの頓挫の後マイナースレットは解散、ハードコア・コミュニティーの拠点とすべく郊外のディスコード・ハウスに移り住んだマッケイ・ネルソンと次第に疎遠になったストレイチェクのユース・ブリゲードは活動停止と、1982年を迎えるまで生き残ったバンドはGIsのみであった。 しかし、これらのリリースはアメリカ各地のパンク・コミュニティーで大きな反響を呼び、マイナー・スレットのスピードのある確かな演奏とともに、ストレート・エッジのスローガンや手の甲のX印のアイコンが、同世代のハードコア・パンクのアイデンティティーとして、口コミやファンジンを通して広がっていくことになった。1982年早々に出されたDCバンドのサンプラー Flex Your Head〔「頭の筋トレ」。Mark JenkinsのDance of Days(2002)によれば、当初は Hardcore と題される予定であったが、マッケイは「ハードコア」という売り文句に関心を失ったと当時のファンジンで語っている。新しいタイトルは、ニューヨークのヴィレッジ・ヴォイス誌で音楽評論家ロバート・クライストガウがDCパンクスのニューヨークのライブでの暴れぶりを「筋肉頭」と評したことに因んでいる。〕 は1週間で最初の4000枚のプレスを完売し、年内さらに2回の追加プレスが必要になった。進学先のシカゴで自分たちがDC外でも認められていることに気づいたプレスラーは、バンドに将来を託すべく大学を辞めてDCに戻り、夏にはマイナー・スレットを再結成する。新生マイナー・スレットは1982年と1983年に自前のヴァンで全米ツアーを行い、アメリカ各地のハードコア・バンドと交流しながらDCハードコアの名声を高め、GI(ガバンメント・イシューと改称)、スクリーム(後にデイヴ・グロールも在籍)、マージナル・マンといったバンドも後に続く。 このような全米での注目は、DC発の新しい文化として地元でも大きく報道され、ハードコア・ライブは盛況を極める。しかし、このハードコア・シーンの規模の拡大の結果、マッケイが理想としたバンドとオーディエンスの垣根のないパンク・コミュニティーは実現が困難となり、プロ・ミュージシャンを志向するプレスラー、ブライアン・ベイカーや、ビジネスとしてのディスコードの運営を憂慮するネルソンら、メンバー間の亀裂が深まる中、1983年夏にマイナー・スレットは解散する。方向性を見失ったディスコードも、ほとんど新リリースのない状態となるが、一方でレコード受注は激増してマッケイとネルソンはディスコード運営の専従となる。SST、英ラフ・トレードといった大手インディー・レーベルからの支援申し出が相次ぐ中、マッケイとネルソンは、パンク共同体的思想でDC郊外の若いパンクに影響を広げたクラスのレーベル実務を担当していた英サザン・レコードとの提携を選び、この関係が20年以上にわたって継続することになる。 1985年、ディスコードの実務に参加していたエイミー・ピカリングのアイデア「革命の夏」は、ライツ・オブ・スプリングやビーフイーターといった音楽的革新性を重視するディスコード周辺のバンドの共感を呼び、音楽を通じたDIY的社会改革運動を目指す団体Positive Force DCと連携した「シーンの中のシーン作り」という新たな方向性をディスコードに提供することになった。イアン・マッケイは、エンブレイスを経てやがてライツ・オブ・スプリングのメンバーと合流したフガジを結成し、1987年から2002年までDIY思想と反商業主義を実践したライブ・ツアーでほとんど間断なく世界各地を回る活動を続ける。ネルソンは、ジャケットやポスターのデザインを通じて運動に参加し、ディスコード周辺では、ディスコード・ハウスに続くグループ・ハウスを中心とした活動が活発化、やがて全米的な規模のRiot Grrrl運動につながる女性によるシーン作りなど、実験性に富む多彩なアンダーグラウンド活動が繰り広げられた。 このようなアンダーグラウンド活動は、1990年代初頭の「オルタナ」ブームでメインストリームのメディアでも取り上げられ、口コミだけで10万枚以上のアルバムセールスを記録したフガジのメジャー契約やディスコード・レーベルの買収が取り沙汰されるようになる。イアン・マッケイは、ジョーボックスやシャダー・トゥー・シンクといったディスコード・バンドのメジャー契約では各バンドの自己決定を尊重し、また、ソニックユースなどメジャー・アーティストとの個人的な関係に基づく音楽活動には積極的なものの、自らはインディー・レーベルとしてのディスコードを堅持し、大手商業メディアのインタビューには応じないといった原則にのっとる活動を継続した。 2002年のフガジの活動休止後、メンバーの個人的なプロジェクトや、20周年記念盤以降、需要の増している旧譜やライブのリマスターを含む再発といった活動を除けば、新しいバンドのリリースは減っている。公式ウェッブページでのマッケイのコメントでは、レーベルはDCのコミュニティーとともに存続するものであり、DCのパンク・コミュニティーが完全に活動をやめればディスコードも活動を停止するとしているが、同時に、ディスコードのバンドを聞いて育った世代の音楽もレーベルとしてリリースすることを明言している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディスコード・レコード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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