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ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント(Dietrich von Hildebrand、1889年10月12日 - 1977年1月26日)はドイツのカトリック哲学者。ローマ教皇ピウス12世をして「20世紀最大の教会博士」と言わしめたことでも有名。また、同じく教皇のヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世もヒルデブラントを高く評価しており、いずれも様々な逸話がある。 ==来歴== 彫刻家アドルフ・フォン・ヒルデブラントの子として、フィレンツェの厳格なプロテスタントの家庭に生まれるが、本人は1914年にカトリックへ改宗。アドルフ・ヒトラーおよびナチズムを激しく嫌悪していたことから、1933年のヒトラー内閣成立と同時にドイツからオーストリアのウイーンに移住する。ウイーンでは時のオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフース支援の下反ナチ紙を編集・発行するが、ナチスにより死刑を宣告される。 ヒトラーがオーストリアを併合した1938年には、再度移住を余儀なくされる。スイス・フリウーリ郊外で約1年過ごした後、トゥールーズカトリック大学で教鞭を執っていた関係上、フランスタルヌ県フィアックに身を寄せることとなる。だが1940年にヒトラーがフランスへ侵攻すると、妻子らと共にポルトガル、ブラジルを経てニューヨークへと亡命。ニューヨークではイエズス会系のフォーダム大学で哲学を教える。 1960年に大学を退職すると、余生を自叙伝の執筆に費やし、英独両言語で書かれた著書は数十冊にのぼる。1977年1月26日、心臓病のためニューヨーク州ニューロシェルにて死去。 なお、著書の翻訳と出版は現在、ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント財団プロジェクト に委託されているほか、ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント研究所 には回想録が保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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