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デブラ・ミセリー : ミニ英和和英辞書
デブラ・ミセリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

デブラ・ミセリー : ウィキペディア日本語版
デブラ・ミセリー[ちょうおん]

デブラ・アン・ミセリーDebra Ann Miceli1964年2月9日 - )は、イタリアミラノ生まれ、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス育ちの元女子プロレスラーギミック上ではミネアポリス出身とされていたこともある。
アメリカと日本で活躍し、アランドラ・ブレイズAlundra Blayze)、メデューサMadusa)などのリングネームで知られる。
== 来歴 ==
リック・ルードカート・ヘニングニキタ・コロフバリー・ダーソウジョン・ノードトム・ジンクなどを輩出したミネアポリスのロビンズデイル高校を卒業後、ロード・ウォリアーズのトレーナーとして知られるエディ・シャーキーのジムでプロレスを学び、1984年AWAにてメデューサ・ミセリーのリングネームでデビュー。AWAではケビン・ケリーらのマネージャーを担当する一方、女子王者のシェリー・マーテルと抗争を展開。1987年12月27日にはシェリーのWWF移籍で空位となったAWA女子王座の争奪トーナメントに出場、決勝でキャンディ・デバインを破りチャンピオンとなった。
その後、1989年から1991年にかけて来日し、全日本女子プロレスを主戦場に活動する(後述)。
1991年、ポール・E・デンジャラスリー率いるヒール軍団、デンジャラス・アライアンスの一員としてWCWに登場。リック・ルード、アーン・アンダーソンラリー・ズビスコボビー・イートン"スタニング" スティーブ・オースチンらと共闘した。1992年8月にはリック・ルードのマネージャーとして新日本プロレスG1 CLIMAXに来日している〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P98(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
1993年WWFへ移籍。アランドラ・ブレイズのリングネームでベビーフェイスとして売り出される。WWFではルナ・バションブル中野ベルサ・フェイと抗争を繰り広げるなど女子戦線で活躍したが、WWF女子王座戴冠中の1995年にWCWへ再移籍した。WCWではリングネームをメデューサに戻し、番組内にてWWF女子王座のベルトをゴミ箱へ捨てるパフォーマンスを敢行した(このパフォーマンスは後のモントリオール事件の伏線ともなっている。また、この出来事で全日本女子プロレスの選手がWWFに定期的に登場するプランもあったが、立ち消えになってしまう)。
WCWでは主要な女子レスラーの一人として活動し、シスター・シェリー北斗晶と抗争。1997年6月のグレート・アメリカン・バッシュでの北斗戦を最後にWCWを離脱するが、1999年よりランディ・サベージのマネージャー役でカムバックする〔。12月19日開催のスターケードではエヴァン・カレイジャスを破り、女性で史上初めてWCWクルーザー級王座を獲得した。また、WCWパワープラントの教官も勤め、トリー・ウィルソンらのトレーニングを行った。
2015年3月2日、WWERAWにてWWE殿堂に迎えらえることが発表され、同月28日にカリフォルニア州サンノゼSAPセンター・アット・サンノゼにて行われた式典では、ナタリヤがインダクターを務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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