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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
デラニー&ボニー(Delaney & Bonnie)は、アメリカ合衆国のデュオ歌手。デラニー・ブラムレット(1939年7月1日 - 2008年12月27日)とボニー・ブラムレット(1944年11月8日 - )の夫婦により結成された。エリック・クラプトンとの共演等で知られる。いくつかの作品では、大編成のバック・バンドを従えて、デラニー&ボニー&フレンズという名義となっている。 == 来歴 == 1939年にミシシッピ州ポントトクで生まれたデラニー・ブラムレットは、1959年にロサンゼルスに渡り、その後テレビ番組「シンディグ!」のハウスバンドであったザ・シンドッグズというバンドで活動〔Delaney Bramlett - Music Biography, Credits and Discography : AllMusic 〕。一方、1944年にイリノイ州アルトンで生まれたボニー・リン・オファレルは、イースト・セント・ルイスで育った後、1960年代にはメンフィスに移り、様々な歌手のバック・コーラスを経て、アイク&ティナ・ターナー専属のヴォーカル・グループ、アイケッツに、初の白人メンバーとして加入した〔Delaney & Bonnie - Music Biography, Credits and Discography : AllMusic 〕。その後、2人はロサンゼルスで出会い、ほどなく結婚。そしてデラニー&ボニーも結成された。 デラニー&ボニーは、1968年にスタックス・レコードとの契約を得る。そして、ブッカー・T&ザ・MG'sやアイザック・ヘイズのサポートを得てレコーディングを行うが、その時の音源は一度お蔵入りとなり、デュオが名声を得た後に、『ホーム』というアルバムとしてリリースされた〔『The Best of Delaney & Bonnie』(Rhino Records, 1990, R2 70777)英文ライナーノーツ(Joe Tortelli)〕。2人は、メンフィスで知り合ったボビー・ウィットロックを連れてロサンゼルスに戻り、エレクトラ・レコードと契約して、1969年春にはアルバム『オリジナル・デラニー&ボニー』でメジャー・デビューを果たす。なお、当時ジョージ・ハリスンがデラニー&ボニーをアップル・レコードに勧誘し、同社から『オリジナル・デラニー&ボニー』をリリースしようとしたが実現せず〔The Beatles manage a Market Watch countdown hat trick - goldminemag.com - article by Susan Sliwicki - 2015年2月3日閲覧〕、同アルバムのために用意されていたカタログ番号「SAPCOR 7」は欠番となった〔1969 - Apple Records - 2015年2月3日閲覧〕。 1969年、デラニー&ボニーはブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーのオープニング・アクトを担当。当時ブラインド・フェイスで活動していたエリック・クラプトンは、2人と親交を深め、バンド解散後、ジェリー・マギー(ザ・ベンチャーズに加入)の後任としてデラニー&ボニーのサポート・ギタリストとなった。デュオはアトコ・レコードに移籍し、12月には、デラニーとエリックが共作した楽曲「カミン・ホーム」がシングルとしてリリースされた。同作はイギリスでもリリースされ、全英16位というヒットを記録した〔ChartArchive - Delaney and Bonnie and Friends - Comin' Home 〕。シングルB面に収録された「グルーピー」は、ボニーとレオン・ラッセルとの共作で、後に「スーパースター」と改題されて、1971年にはカーペンターズによるカヴァーが世界的に大ヒットした〔。 また、1969年末のイギリス・ツアーは、エリック、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、デイヴ・メイソン、ボビー・キーズ、リタ・クーリッジ等も加わった大所帯で行われた。その模様は、1970年にはライヴ・アルバム『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』として発売され、全米29位〔On Tour with Eric Clapton - Delaney & Bonnie : Awards : AllMusic 〕、全英39位のヒット作となった〔ChartArchive - Delaney and Bonnie and Friends - On Tour 〕。エリックはその後、このツアーで共演したミュージシャン3人と共にデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。 2人はその後、デュアン・オールマンと交流を深め、『デラニーよりボニーへ』(1970年)、『モーテル・ショット』(1971年)を発表。後者はアンプラグドの色が強い作風で、デュアンに加えてジョー・コッカーやグラム・パーソンズも参加。また、映画『バニシング・ポイント』にも出演した〔Vanishing Point (1971)-Full cast and crew- 〕。その後、コロムビア・レコードに移籍して『D&Bトゥゲザー』(1972年)を発表した。しかし、同作を最後にデュオは解散し、2人は離婚する。 その後共にソロ・アーティストとしての道を歩むが、ボニーは1987年よりボニー・シェリダン名義で女優に転向。2002年に約四半世紀ぶりのアルバム『アイム・スティル・ザ・セイム』でシンガーとしてカムバックを果たした〔Bonnie Bramlett - Music Biography, Credits and Discography : AllMusic 〕。 一方デラニーは1972年に『サム・シングス・カミング』でソロ・デビュー後、1970年代に計4枚のアルバムを発表した。1980年代以降は暫く作品は途絶えるものの、2000年に『サウンズ・フロム・ホーム』でカムバック。2007年には『ア・ニュー・カインド・オブ・ブルース』をリリースし存在感を示した。しかしながら、2008年12月27日、デラニーは胆嚢手術後の合併症によりロサンゼルスで死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デラニー&ボニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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