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トゥゴルカン(、1028年 - 1096年7月29日)は、ポロヴェツ族のハンである。ボニャークの僚友的な存在であり、ボニャークと共に、西ポロヴェツの複数のオルダを統合した。 ==生涯== 史料へのもっとも早い言及はボニャーク同様、ビザンツ帝国の皇女アンナの著述の中に見出される。このとき、ペチェネグ族がビザンツの統治するバルカン半島に侵入していた。1091年、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスの召集に応じたトゥゴルカンとボニャークは、軍勢を率いてビザンツの救援に赴いた〔國本哲男『ロシア原初年代記』500-501頁〕。しかしビザンツ軍・ポロヴェツ軍は互いに信頼しておらず、おそらく、ペチェネグ族との会戦(レヴニオンの戦い(ru))は、勝利したものの大混乱のうちに終わったと思われる。また、この会戦でビザンツ軍は、多くのペチェネグ族のオルダを破壊し、多数の捕虜を殺した。同盟者のこの残忍な行為におびえたポロヴェツ軍は、ドニエプル川流域のステップへと帰還した。 1093年、ボニャークと連合し、キエフ大公・スヴャトポルク2世に対する遠征を行い、勝利した〔國本哲男『ロシア原初年代記』240-243頁〕。完全敗北に終わったスヴャトポルクは、1094年の和平条約で、トゥゴルカンの娘を妻とすることになった〔國本哲男『ロシア原初年代記』247頁〕。 1095年、ボニャークと共にビザンツへの遠征軍を派遣した〔國本哲男『ロシア原初年代記』248頁〕が、失敗に終わった。派遣した多くのポロヴェツ軍は死亡し、全ての戦利品は、ビザンツ帝国軍の追撃によって奪い返された。 1096年5月31日、ペレヤスラヴリを包囲した〔國本哲男『ロシア原初年代記』251頁〕。しかし、スヴャトポルク2世とウラジーミル・モノマフの従士隊(ドルジーナ)の接近に気づかず、7月19日にポロヴェツ軍は撃破された〔國本哲男『ロシア原初年代記』252頁〕。このトルベジュ川の戦いで、トゥゴルカンは息子と共に戦死した。スヴャトポルクは、戦場から義父の遺体を見つけだすことを自分の義務と受け止め、ペレストヴォの近くに遺体を埋葬した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゥゴルカン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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