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ドゥマーギーン・ソドノム(ドゥマーギイン・ソドノム、ドマーギン・ソドノム、、ラテン文字転写の例:、1933年7月14日 - )は、モンゴル人民共和国の政治家。1984年から1990年まで、モンゴル人民共和国閣僚会議議長(首相)を務めた〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。 == 経歴・人物 == 1933年7月14日、ドルノゴビ県ウルゲンに生まれる。1942年東モンゴルのヘンティー県バヤンムンフ郡に移り、小学校に入学する。1946年に、ウランバートルに上京し、当初、芸術関係の学校に進学する予定であったが、叔父が学んでいた財政・経済専門学校(テクニカルカレッジ)予科に入学する。1950年「国家付き会計士」の資格を取得し財政・経済専門学校を卒業した。卒業後、大蔵省に採用され、監査局監査官として4年間勤務した。また、大蔵省勤務中に10年制第2学校夜間部で学び1953年に卒業した。1954年にはモンゴル人民革命党に入党した。1954年ソ連に留学し、イルクーツク財政・経済高級学校(イルクーツク財務学院)で経済学を学び、1958年7月にヴェーラ夫人と結婚。同年8月に同校を修了した〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。 帰国後、大蔵省に復職し、通貨課長を経て、1963年30歳の若さで蔵相に任命される。1969年国家計画委員会第一副議長を経て、1972年同委員会議長。1974年閣僚会議議長(副首相)に就任する〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。 1984年12月12日、閣僚会議議長(首相)に就任する。この年にユムジャーギーン・ツェデンバルが失脚し、ソドノムの盟友でもあったジャムビィン・バトムンフが政権を握ると、ソドノムは人民革命党政治局員にもなり、名実共にバトムンフに次ぐナンバー2になった。ソドノムはバトムンフと共に体制内改革に着手するが、1989年から1990年にかけて行われたモンゴル民主化運動により、1990年3月21日、首相と党政治局員を辞任した〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。 首相辞任後は、1990年から2001年まで、カザルィン・トス石油会社の取締役を務めた〔 なお、このサイトによると石油公団総裁となっている。〕。また、その間、1992年には、ポンツァギーン・ジャスライ首相の顧問を務めた〔アラン・J.K.サンダース、『モンゴル歴史辞典』1996年、ISBN 0-8108-3077-9.〕。 日本との関係では、首相時代の1990年3月にモンゴル首脳としてはじめて来日している〔 〕。その後も日本・モンゴル関係促進協会会長を務めている。2005年には、日蒙友好親善関係に尽くした功労で旭日大綬章を受章している〔 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドゥマーギーン・ソドノム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dumaagiin Sodnom 」があります。 スポンサード リンク
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