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ドミトリー・ムスチスラヴィチ : ミニ英和和英辞書
ドミトリー・ムスチスラヴィチ[らヴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love

ドミトリー・ムスチスラヴィチ : ウィキペディア日本語版
ドミトリー・ムスチスラヴィチ[らヴ]
ドミトリー・ムスチスラヴィチ(、? - 1223年5月31日)はチェルニゴフ公ムスチスラフの子である。母はヤースの公女マルファ〔Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время. — С. 69-70.〕。コゼリスク公:1216年もしくは1219年 - 1223年。
==生涯==
ドミトリーの生年については詳しくは不明である。ルーシの年代記レートピシ)にはその名も記載されておらず、ドミトリーという名は『リューベチ・シノディク(ru)』等の過去帳に記されたものである〔Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время. — С. 89-90.〕。また、V.タティーシチエフ(ru)は名をヴァシリコとし〔Татищев В. Н. История Российская. — Т. 3. — С. 218.〕。L.ヴォイトヴィチはヴァシリコを本名、ドミトリーを聖名であるとみなしている〔Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження . — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. 〕。
年代記における、ドミトリーに関する記述は1箇所のみである。すなわち、父ムスチスラフや他のルーシの諸公らとともにカルカ河畔の戦いに参加した、という記述である。この戦いで多くの公が戦死・刑死し、ドミトリーもまたその中の1人であったと考えられている〔Карамзин, 1816—1829 — Т. III — Глава VIII〕。
N.バウムガルテン(ru)は『リューベチ・シノディク』に基づき、ドミトリーはチェルニゴフ公であったとみなしている〔Baumgarten N. Généalogies et mariages… — P. 89.〕。しかしこの説は否定的見解を受けており、L.ヴォイトヴィチは、ドミトリーは父がチェルニゴフ公となった後に、コゼリスク公国分領公国として受領したのみとみなしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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