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ナタリー・デセイ : ミニ英和和英辞書
ナタリー・デセイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ナタリー・デセイ : ウィキペディア日本語版
ナタリー・デセイ[ちょうおん]

ナタリ・ドゥセNatalie Dessay, 1965年4月19日 リヨン - )は、フランス声楽家。レパートリーの幅広いリリック・ソプラノおよびコロラトゥーラ・ソプラノであり、歌唱力と美貌を兼ね備えた現代世界最高のオペラ歌手の一人。オペラ歌手としては、《後宮からの誘拐》のブロンデ役や《ナクソス島のアリアドネ》のツェルビネッタ役で著名。ドイツオペラだけでなく、イタリアオペラ、フランスオペラ等にも広範なレパートリーを持つ。バリトン歌手のロラン・ナウリと結婚、子供2人とパリ近郊で暮している。
*「デッセイ」や「デッセー」は間違いである。
== 経歴 ==
本名は Nathalie Dessaix と綴られる(読みは同じ)。少女時代にナタリー・ウッドへの憧れから、名前から黙字の h を落としたという。元は女優だったが、奨められて声楽ボルドー国立音楽院に学び、またトゥールーズの教会で聖歌隊員として経験を積む。1年間パリ・オペラ座の声楽教室(''Ecole d'Art Lyrique'' )に学んだ後、フランス・テレコム社主催の声楽コンクール「新しい声 ''Les Voix Nouvelles'' 」に優勝し、またウィーン国立歌劇場の「モーツァルト国際コンクール」でも覇者となる。たちまち多くの劇場から引く手あまたとなり、《劇場支配人》のヘルツ夫人や《ツァイーデ》のツェルビネッタといった役どころでリヨン歌劇場オペラ・バスティーユに、また《こうもり》のアデーレでジュネーヴ歌劇場に出演した。
1992年4月と5月にオペラ・バスティーユにおいて、《ホフマン物語》のオランピア役で短期間ジョゼ・ヴァン・ダムと共演する。ロマン・ポランスキーの舞台演出は不評だったが、この出演を機にドゥセはスター街道を上り詰めるきっかけをつかむことになり、まもなく別の演出による《ホフマン物語》にも同役で再登用され、十数年後にオペラ座で凱旋公演を行なった際にもオランピア役を演じている。
その後間まもなくウィーン国立歌劇場においてモーツァルトの《後宮からの誘拐》の上演にブロンデ役で出演し、その後は《ホフマン物語》のドイツ語版の公演で、シェリル・ステューダーの代役を務めるように依頼される。1993年12月のオランピア役は、ウィーンの聴衆の心を捕らえ、プラシド・ドミンゴと地元のマスメディアは、ドゥセの表向き努力知らずの発声法が信じがたいと口々に唱えた。次の公演はカルロス・クライバーの指揮のもと、リヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》でバーバラ・ボニーと共演する運びとなっていたが、この計画は実現しないままクライバーは2004年に他界した。
1994年10月にニューヨークメトロポリタン歌劇場にデビューし、リヒャルト・シュトラウスの《アラベラ》の "Fiakermilli" 役を務める。1997年9月にはツェルビネッタ役で、1998年2月にはオランピア役でメトロポリタン歌劇場に再登場を果たした。その後ウィーン国立歌劇場から、リヒャルト・シュトラウスの《影のない女》とベルクの《ルル》への出演を打診されるが、後者への登用を断っている。
エクサンプロヴァンス音楽祭において、初めて《魔笛》の「夜の女王」役に挑む。当初は、悪役をすることを嫌がって、夜の女王役を演じることを躊躇っていたが、指揮者のロベール・カルソンに説得されて、この役柄は違うのだ(つまりパミーナの姉妹のようなものなのだ)と考えを改めた。今では「夜の女王はこれっきり、ということがずっと続いていきそうです」と言いながら、この役柄を引き受けており、それから何年間も「これで最後の」夜の女王役に取り組んでいる。
2001年から2002年までウィーンにおける定期公演では、声の不調に悩まされ、《夢遊病の女》の上演スケジュールから降ろされた上、その後のいくつかの公演、たとえばリヨン歌劇場における《ランメルモールのルチア》のフランス語版や、コヴェント・ガーデンにおけるツェルビネッタ役も降板を余儀なくされた。この2年間ドゥセは舞台を去って、声帯の外科手術を受けている。2003年2月にパリで復活公演を行い大成功をおさめ、その翌月にはツェルビネッタ役でメトロポリタン歌劇場に復帰した。後者の模様は映像に収録された。
2003年の夏にサンタフェ歌劇場において盛大な演奏会を行い、ニューメキシコ州に(とりわけサンタフェ)に大いに魅了されたドゥセは、翌年の定期に《夢遊病の女》を引っさげて再演することを同劇場に申し入れたほどである。総監督のリチャード・ガッデスは、2004年の夏の音楽祭の編成を見直して、その申し出を実行させた。2006年の夏には、やはりサンタフェ歌劇場に《魔笛》のパミーナ役で出演している。
故障の再発によって再び降板となり、再々手術を受け、2005年に舞台復帰を果たすもレパートリーの見直しを余儀なくされ、幾つかのレパートリーを捨てるとともに、新たなレパートリーを取り入れる結果となった(その例が、マスネマノン》のタイトル・ロールや、グノーロメオとジュリエット》のジュリエット役、ドニゼッティ《ランメルモールのルチア》のルチア役、《椿姫》のヴィオレッタ役である。『椿姫』については自身ヴィオレッタはもう歌わないと発言しつつ公演の舞台裏を紹介する2013年のドキュメンタリー「椿姫ができるまで」に出演した。)映画では『戦場のアリア』でダイアン・クルーガー演じるアナの歌唱を吹き替えも行った。
故障に加え近年オペラでは声域や声質に合った役柄の限界もあり、13年10月にオペラからは引退する事を発表。歌曲の演奏機会は増化しており、シャニ・ディリュカのピアノアルバム"ROAD66"ではコール・ポーターの「恋とは何でしょう」をクラシック音楽の枠を超え、非オペラの発声で歌っている。2014年4月にはピアニストのフィリップ・カサールと共に来日、リサイタルを行った。
CD録音は各社のクラシック部門縮小までEMI~ヴァージン・クラシックスから継続的に行われた。デビューアルバムはモーツァルトによるコンサート・アリア(アロイジア・ヴェーバーのために書かれた楽曲を主体とする)。フランス・オペラのアリア集や『ヴォカリーズ』では持ち役だったものが多数聴かれる。ベッリーニ、ドニゼッティ、R.シュトラウス作品を歌ったアルバムやオペラの全曲録音があり、持ち役以外でもバッハのカンタータやブラームスの『ドイツ・レクイエム』のソリストも務めたCDがある。夜の女王を含むモーツァルトのオペラ・アリア集もリリースされたが、スザンナやバルバリーナを公演で演じた『フィガロの結婚』は含まれなかった。この2社以外ではデッカからの『ポントの王ミトリダーテ』とエラートからの『魔笛』、『ホフマン物語』にそれぞれ全曲盤がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナタリー・デセイ」の詳細全文を読む




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