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ナリク ナリク(Naliqu, Nalïqu, Nalïγu, ペルシア語: ناليقو Nālīqū、? - 1309年)は、チャガタイ・ウルスの第13代君主(在位:1308年 - 1309年)。1504年にムハンマド・シャイバーニー・ハンの命によって編纂された『勝利の書なる選ばれたる諸史』(Tawārīkh-i Guzīda-yi Nuṣrat Nāma)〔赤坂恒明「『勝利の書なる選ばれたる諸史』「ジュチ紀」」『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月、50-51頁〕など後代の一部史料ではタリク(タリグ、 تاليغو Tālīghū)としている場合もあるが、14世紀以降に編纂された『集史』『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』などの史料では、おおよその場合「ナリク」( ناليقو Nālīqū)としているため、本項目でも「ナリク」とする。 チャガタイの孫であるブリの孫で、カダキ・セチェンの息子である。ケルマーン・カラヒタイ朝君主ルクヌッディーン王女トゥルカーンを母に持ち、彼はイスラム教を信仰していた〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、37頁〕。 1308年にゴンチェクが死去すると、ドゥア一門に適当な後継者がいなかったため、チャガタイ家の長老格である彼がハンに即位した〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,47-48頁〕。即位後はイスラム教の保護を推進すると共に、ドゥアの一族とドゥア派のアミール(貴族)を圧迫したため、ナリクの従兄弟であるオルグがドゥア家の人間の即位を要求して挙兵した〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,48頁〕。ナリクはオルグを敗死させ、ブカ・テムル・ハンの孫ヤサウルを初めとした諸王の反抗も鎮圧する〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、48頁〕。
ヒジュラ暦708年(1308年 - 1309年)、ドゥアの子の一人ケベクは、ナリクに仕えていたドゥア派のアミール達に助けを求め、ウーザン・バートルらアミール達は求めに応じた〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、49頁〕。アミール達によって祝宴の席に火が放たれ、酔いつぶれていたナリクと諸将は殺害された〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,49頁〕〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、230-231頁〕。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナリク」の詳細全文を読む
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