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ノーフォーク焼き討ち : ミニ英和和英辞書
ノーフォーク焼き討ち[のーふぉーくやきうち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
焼き討ち : [やきうち]
 【名詞】 1. set afire 2. setting on fire

ノーフォーク焼き討ち : ウィキペディア日本語版
ノーフォーク焼き討ち[のーふぉーくやきうち]

ノーフォーク焼き討ち()は、アメリカ独立戦争中の1776年1月1日に起きた出来事である。現在のバージニア州ノーフォーク港にいたイギリス海軍の艦船が町に対する砲撃を始め、部隊が上陸して特定の建物を焼いた。ロイヤリストが多かったノーフォークの町民は逃亡し、バージニア植民地ノースカロライナ植民地から来た愛国者民兵隊が占領した。この愛国者部隊はイギリス軍上陸部隊を追い出そうとしたが、火災の進行を止めようとはせず、ロイヤリスト資産の焼却と略奪を始めた。
3日後に町の大半は破壊し尽くされたが、これは主に愛国者部隊の仕業だった。さらに2月初旬、イギリス軍が町に残っている資産を使わないよう、愛国者部隊が町を完全に破壊した。バージニアのイギリス当局にとってノーフォークは最後の重要な足がかりだった。イギリス軍はその後暫くはバージニア海岸部に対する襲撃を続けたが、バージニア植民地最後の総督となった第4代ダンモア伯ジョン・マーレイは1776年8月にバージニアを離れ、その後は戻らなかった。
== 背景 ==
イギリス領バージニア植民地における緊張感は1775年4月に高まった。これは北のマサチューセッツ湾植民地レキシントン・コンコードの戦いが起こり、アメリカ独立戦争が始まったのとほぼ同時期だった。植民地議会を支配していた愛国者(ホイッグと呼ばれた)側は同年3月までに徴兵を始めており、植民地の軍需物資の支配を巡って動き出していた。植民地総督のダンモア卿がウィリアムズバーグにあった倉庫から火薬イギリス海軍の艦船に移すようイギリス軍に命じたので、愛国者側議員に警鐘を発し、民兵隊の蜂起を促すことになった〔Wilson, p. 7〕。この事件は暴力沙汰無しに解決されたが、ダンモアは自身の安全が脅かされていることを怖れ、6月にはウィリアムズバーグを離れて、家族を海上のイギリス海軍艦船に移した〔Russell, p. 53〕。続いて港湾都市ノーフォークにイギリス海軍の小戦隊を結集させた。ノーフォークはロイヤリストの商人が多い町だった。町では愛国者に対する幾らかの支持があったが、この小戦隊による威嚇で、ノーフォークでの愛国者側の動きを抑える効果があった〔Russell, p. 55〕。
10月まで愛国者側とロイヤリストの間で事件が続いていたが、ダンモアは反乱側に対抗する作戦を始めるために十分な軍事的支援を得られるようになった。愛国者側はウィリアムズバーグにかなりの数の民兵を集めた。北アメリカのイギリス軍総司令官であるトマス・ゲイジは、ダンモアからの要請に応えて、第14歩兵連隊から小さな派遣部隊をバージニアに送るよう命じた。10月12日、この部隊が愛国者側軍需物資のある周辺郡部への襲撃を始めた〔Selby and Higginbotham, p. 62〕。この動きは10月一杯続いていたが、ハンプトン近くで起きた小競り合いのときに、小さなイギリス艦船が座礁し、愛国者側に捕獲された。ハンプトンの町民に懲罰を与えるために派遣されたイギリス海軍艦船は、大陸軍と民兵合同部隊との小競り合いで撃退され、幾人かの水兵が殺されまた捕虜になった〔Russell, p. 68〕。この出来事に反応したダンモアは、11月7日に宣言書を書き上げ、その中で戒厳令を宣言し、進んでイギリス軍に仕えようという愛国者主人に属する奴隷には身分を解放すると約束していた〔Wilson, p. 8〕。この宣言はロイヤリストも愛国者も奴隷所有者には同じように警告となり、元奴隷が武装して自分達の資産を失わせるという懸念が出てきた〔Wilson, p. 8〕。それでもダンモアは奴隷を徴兵してエチオピア連隊を編成することができ、また女王のロイヤル・バージニア連隊と呼んだロイヤリスト中隊を立ち上げることもできた。当時バージニアでは唯一のイギリス軍正規部隊だった第14歩兵連隊の2個中隊をこれらの地元部隊が補うことになった〔Wilson, p. 9〕。この徴兵の成功に気をよくしたダンモアは1775年11月30日、「この植民地に適度の義務感を持たせる」ことができるだろうと記していた〔Kranish, p. 79〕。
10月、バージニア植民地議会は、バージニア第2連隊のウィリアム・ウッドフォード大佐に民兵数個中隊を付けてハンプトンに派遣した。民兵はウィリアムズバーグに集まり続けていた〔Russell, p. 68〕。その部隊が700名ほどに膨れあがったウッドフォード隊は、12月初旬にグレートブリッジまで進軍した。ダンモア配下の兵士の幾らかが橋の北側を固めていたので、ウッドフォードは自軍側の陣地の防御工作を始めた。この間にも周辺郡部やノースカロライナから次々と民兵が到着していた〔。12月9日、イギリス軍はウッドフォード隊を追い散らそうとしたが、逆に完璧に撃退された(グレートブリッジの戦い)〔Wilson, pp. 11–13〕。この戦闘後にイギリス軍はノーフォークまで後退し、さらにその後にはダンモアとその全軍がノーフォーク港に停泊するイギリス海軍艦船に引き揚げた。ノーフォークに残っていたロイヤリストの大半も同行した〔Selby and Higginbotham, p. 74〕。戦闘の後で、ウッドフォード隊には、ロバート・ハウ大佐とノースカロライナ正規兵部隊が到着し、勢力を増し続けた〔Russell, p. 72〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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