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ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 、1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ドイツの政治家。 == 概要 == 1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセン邦の秘密国家警察ゲシュタポ〔日本における特別高等警察に相当し、共産主義者等の政治的危険分子を取り締まった。〕副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を一手に掌握した〔谷 2000, pp. 98-101.〕(ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした〔谷 2000, p. 96.〕。 社会ダーウィン主義とアーリアン学説の影響を受けたナチスの人種イデオロギーは、アーリア人種、特にその一派とされた北方人種と定義された人々をとし、ユダヤ人〔セム人と呼ばれた。〕、ロマ〔ロマはアーリア人とされていたが、ナチスは混血を理由に劣等民族とした。〕、スラヴ人〔ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソビエト連邦の加盟国民(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)等がこれに該当する。ヒトラーはボルシェヴィキ革命をユダヤの陰謀とみなしてロシア人を危険視したほか、ドイツ人のための東方生存圏建設に際して、そこに居住するスラヴ民族やその他の異民族を追放するか北方人種の奴隷階級とすることを構想していた。〕は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、北方人種の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は水晶の夜事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。「北方人種」「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった強制収容所(KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった〔山本秀行 『世界史リブレット49 ナチズムの時代』 山川出版社、1998年、44頁。〕。 第二次世界大戦期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。ポーランド侵攻に際しては親衛隊特別行動部隊がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。占領地域での生存圏政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の総督府領に追放させる任務に当たった。その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「生きるに値しない命」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが絶滅収容所建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。 大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、アドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、エルベ川を渡った後の1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハインリヒ・ヒムラー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Heinrich Himmler 」があります。 スポンサード リンク
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