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"プレイボーイ" バディ・ローズ("Playboy" Buddy Rose、本名:Paul Perschmann、1952年11月15日 - 2009年4月28日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州バンクーバー出身。 地元の太平洋岸北西部をはじめ、デビュー地のAWAやWWFを主戦場に、ショーマン派のヒールとして活躍した。日本にも、中堅外国人ヒールのポジションで1980年代前半の新日本プロレスに度々参戦した。 == 来歴 == AWAのバーン・ガニアとビル・ロビンソンのトレーニングを受け、1973年にボブ・リーマス(後のサージェント・スローター)を相手にデビュー。1975年11月には本名のポール・パースマン名義で全日本プロレスに初来日している。 1970年代後半より、地元のワシントン州およびオレゴン州やカナダのブリティッシュコロンビア州など太平洋岸北西部をサーキット・エリアとするPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)に定着し、"プレイボーイ" バディ・ローズをリングネームに金髪の伊達男系ヒールとして活躍。ロディ・パイパー、ジミー・スヌーカ、リック・マーテル、ジェイ・ヤングブラッド、マット・ボーンらと抗争を繰り広げ、同地区のフラッグシップ・タイトルであるNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を1984年まで通算8回に渡って獲得。ジェシー・ベンチュラやスタン・スタージャックをパートナーに、同タッグ王座にも12回戴冠している。その間、1978年から1979年にかけては太平洋エリアの他地区にも参戦し、ハワイではジョン・アンソンやドン・ムラコ、サンフランシスコではディーン・ホーやロン・スターを相手に各地のフラッグシップ・タイトルを争った。 1982年4月13日にはPNWの本拠地ポートランドにて、ルーキー時代にAWAで何度となく対戦していたリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。その直後、新日本プロレスに来日しており、ハルク・ホーガンのパートナーにも起用されている。帰国後、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦し、PNWでの旧敵ジミー・スヌーカやロッキー・ジョンソンとも抗争〔。1982年12月4日にはマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、海外遠征中だったタイガーマスクと対戦している。日本では新日本プロレスの常連外国人の一人となり、1984年1月の来日時は彼が手本としていたダスティ・ローデスともタッグを組んだ。 以降もPNWとWWFを主戦場に、1985年3月31日にMSGで行われたレッスルマニアの第1回大会では、覆面レスラーのジ・エクスキューショナー(''The Executioner'')として第1試合でティト・サンタナと対戦。敗れはしたものの、歴史的イベントのオープニング・マッチを飾った。その後はボビー・ヒーナンがマネージャーとなって素顔に戻るが、短期間で離脱してフロリダ地区に転戦。ケビン・サリバンやリック・ルードと共闘し、ワフー・マクダニエル、ビリー・ジャック・ヘインズ、ケンドール・ウインダムなどと対戦した。 1986年は古巣のAWAに参戦し、シェリー・マーテルをマネジャーに "プリティボーイ" ダグ・サマーズと金髪タッグを結成。同年5月17日、スコット・ホール&カート・ヘニングからAWA世界タッグ王座を奪取する。その後は翌1987年にかけて、マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズと抗争を展開。マサ斎藤やケビン・ケリーともタッグを組んだ〔。 1990年にジョバーとしてWWFに再登場するが、1990年代前半にセミリタイアし、PNWでローズ・ガーデン(''The Rose Garden'')なるインタビュー・コーナーを担当。その後はポートランドにて、PNWでの盟友エド・ウィスコスキーとレスリング・スクールを共同運営する一方、ラジオ番組のホストなどをしていた。2005年1月29日にはフロリダ州タンパで行われたオールドタイマーによるイベント"Wrestle Reunion" に出場。カーネル・デビアーズ(エド・ウィスコスキー)&カウボーイ・ボブ・オートンと組み、因縁のロディ・パイパー&ジミー・スヌーカにジミー・バリアントを加えたトリオと6人タッグマッチで対戦した(マネージャー役はAWA時代と同様、シェリー・マーテルが務めた)。 2009年4月28日、ワシントン州バンクーバーの自宅で急死。。晩年は糖尿病を患い、180kg近くまで体重が増加していたという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バディ・ローズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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