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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
デゴバート・キャンパネリス・ブランコ(Dagoberto "Bert" Campaneris Blanco , 1942年3月9日 - )は、キューバのマタンサス州プエブロ・ヌエボ出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投げ右打ち。愛称は"Campy"(キャピー)。 従兄弟のホセ・カーデナルも元MLB選手。 == 経歴 == 4月25日にMLBのカンザスシティ・アスレチックスと捕手契約を結んだ〔 〕。器用な選手だったらしく、内野手にコンバートされた〔。マイナーリーグ時代の8月に、フロリダステートリーグで投手として登板した時に左右投げを披露したスイッチピッチャーである。ただしスイッチヒッターでは無い〔。 7月23日の対ミネソタ・ツインズ戦でMLB初出場。ジム・カートから初打席初本塁打を放ち、第4打席でもジム・カートから本塁打を放った。このMLBデビュー戦2本塁打はチャーリー・ライリー()、ボブ・ニーマン()、マーク・クイン()、A・J・ピアジンスキー()が他に達成している。 MLBでは主に遊撃手として出場したが、9月8日の対カリフォルニア・エンゼルス戦で史上初の1試合全ポジション守備を記録した。1番遊撃手で先発出場し、回ごとに二塁手→三塁手→左翼手→中堅手→右翼手→一塁手→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回には自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容だった。9回に走者のエド・カークパトリックと衝突し、負傷退場した〔。試合は延長戦に入り、13回に5対3でエンゼルスが勝利した。なおこの時アスレチックスは首位から30ゲーム離されていたため、キャンパネリスの全ポジション出場はプロモーションだった〔。この記録はのちにシーザー・トーバー()、スコット・シェルドン()、シェーン・ホルター(2000年)が達成している。 1965年は51盗塁を記録、盗塁王のタイトルを獲得した。前年まではルイス・アパリシオがデビュー1年目から9年連続で盗塁王を獲得していた。 (52盗塁)と(55盗塁)も50盗塁以上で盗塁王を獲得。 1968年はリーグ最多の177安打に加えて自己最多の62盗塁を記録し、1965年から4年連続となる盗塁王を獲得した。 は22本塁打を放ち、唯一の二桁本塁打を記録したシーズンとなった。42盗塁で5度目の盗塁王も獲得している。 は52盗塁を記録し、6度目の盗塁王を獲得した。延長戦に突入した9月13日の試合では6度の併殺プレーを演じ、アメリカンリーグ記録を樹立した。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシリーズ第2戦では、レリン・ラグローから3安打・2盗塁を記録したが、7回に足に当たる死球を受け、バットをラグローへ向けて投げたことからラグローとともに退場処分となった。チャンピオンシリーズの残りの試合と次のシーズンの最初の7試合に出場することは禁止されたが、ワールドシリーズの出場は許可された。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでキャンパネリスは打率.179と不振を極めたものの、チームは4勝3敗でレッズを破り、初のワールドチャンピオンを経験した。 のボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦の延長11回裏に最初の打者としてサヨナラ本塁打を放ち、チームはワールドシリーズへの進出を決めた。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第7戦の3回に2点本塁打を放ち、レジー・ジャクソンも2点本塁打で後に続き、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。 翌のワールドシリーズでもロサンゼルス・ドジャースを4勝1敗で破り、チームは3年連続でワールドチャンピオンに輝いている。ワールドシリーズ3連覇時はレジー・ジャクソンとともに打線の中心として活躍した。 アスレチックス球団記録の通算1795試合出場・7180打数・1882安打を保持している。 11月1日にテキサス・レンジャーズへ移籍した。 5月4日にカリフォルニア・エンゼルスへ移籍した。 はメキシカンリーグのベラクルス・イーグルスとポサリカ・オイラーズでプレー。 1月24日にニューヨーク・ヤンキースでMLBに復帰し、このシーズン限りで41歳で現役を引退した。 その後は西武ライオンズの一軍守備・走塁コーチ()、二軍守備・走塁コーチ()を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バート・キャンパネリス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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