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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
リック・アルバート“バート”ブライレブン(Rik Aalbert "Bert" Blyleven, 1951年4月6日 - )は、1970年代から1990年代初めにかけて活躍したオランダのユトレヒト州出身の元メジャーリーグベースボール選手(投手)。姓はブライルベンやブレイレブンと表記されることもある。絶妙なカーブの使い手として知られ、「カーブボールの芸術家」とも言われた。 == 人物・来歴 == オランダで生まれ、移住したカリフォルニア州南部で育つ。ロサンゼルス・ドジャースのファンで、サンディー・コーファックスの投げる試合をよく観戦していた。 のドラフト会議でミネソタ・ツインズから指名され、入団。一年足らずのマイナーキャリアを経て、6月2日にメジャーに昇格し、6月5日に初登板。この年10勝をあげてチームの地区優勝に貢献し、スポーティング・ニュース社の選ぶア・リーグ最優秀新人投手に選出された。翌年以後も16勝、17勝、20勝、17勝、15勝と活躍。この頃が成績的には絶頂期だが、当時はファンやマスコミとの関係もいまひとつで、決して恵まれた時期ではなかったという。 6月1日にテキサス・レンジャーズに移籍。この年はツインズ時代とあわせて13勝。9月22日のカリフォルニア・エンゼルス戦ではノーヒッターを達成し、14勝をあげた。シーズン終盤に鼠径部損傷の故障を発症すると、その年の12月8日に、史上初の四球団が絡むトレード〔日本のプロ野球では三球団以上が絡むトレードは禁止されている。〕でピッツバーグ・パイレーツに移籍。には14勝をあげ、には12勝をあげて、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。しかしチームに不安を持ち、途中に移籍を希望し、かなわなければ引退すると発言した。 その年12月9日にクリーブランド・インディアンスに移籍。50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮されたにも11勝をあげるが、は肘の故障で4試合の登板に終わる。もその影響で苦しいシーズンを送るが、には19勝7敗と、自己2番目に多い勝ち星を記録。シーズン途中に、古巣ツインズに9シーズンぶりに復帰すると、今度は大きな声援に迎えられた。その年は両球団合計で17勝(16敗)をあげ、奪三振206はリーグ1位であった。1982年に誕生したツインズの本拠地メトロドームは打者に有利な球場で、球速の衰えたブライルベンには厳しく、8月1日には、当時メジャー史上10人目〔シーズン終了時点での達成者は16人。〕の通算3,000奪三振を達成し、シーズンでも17勝14敗を挙げたものの、50本のホームランを喫した。には15勝12敗の活躍でチームを地区優勝、リーグ優勝に導き、自身2度目のワールドシリーズに出場。第2戦では勝利投手となる。第5戦ではカージナルスが、シリーズでは1907年以来となる5盗塁を許し、ブライルベンは敗戦投手となるが、2勝3敗と追い込まれたチームは本拠地での第6戦、第7戦に連勝して、「Home Sweet Dome」でのワールドチャンピオンを決めた。 は被本塁打こそ21だが、防御率5.43と乱調で、10勝17敗に終わり、この年限りでカリフォルニア・エンゼルスに移籍。初年度のには17勝5敗、防御率2.73と活躍し、カムバック賞を受賞するが、は8勝7敗。回旋筋を痛めたは1シーズン登板がなく、に復帰するが8勝12敗に終わる。あと13勝に迫った通算300勝に意欲を持ち、42歳でのスプリング・トレーニング〔日本のプロ野球でいう春季キャンプ。〕で古巣ツインズのトライアウトを受けるが契約には至らず、現役引退を発表した。引退後はツインズ専属のコメンテーター(解説者)を務めている。2009年には、WBC オランダ代表の投手コーチを務めた。 通算287勝250敗、防御率3.31、奪三振3,701と、アメリカ野球殿堂入りに相応しいと言える成績を残し、に殿堂入りのための全米記者協会による選考投票を受ける資格(得票率が75%を超えると殿堂入りとなる)を得たが、なかなか殿堂入りを果たせなかった。特に通算奪三振は歴代5位で、3,000奪三振は終了時点で15人しか達成者がおらず、ブライルベン以外に野球殿堂入りの資格を得た選手は全て殿堂入りを果たしていた。2010年の記者投票の得票率は74.2%で、わずかな差で殿堂入りを逃した。しかしながらの記者投票で79.7%の得票率を得て、14年目にしてようやく殿堂入りを果たした〔ブライルベン氏とアロマー氏が米国野球殿堂入り 〕。1月27日、ツインズはブライルベンの殿堂入りと功績を讃え、在籍中に着けていた背番号「28」を永久欠番にすると発表した。 には前回大会に続いてWBC オランダ代表の投手コーチを務め、ベスト4進出に貢献。 パイレーツ時代、ボブ・ホーナー(当時ブレーブス、のちヤクルト)にメジャー初本塁打を打たれた。また、ジェイ・ベルには、メジャー初打席で、初球を本塁打された。ダグアウトでの悪戯で知られ、時折チームメイトのスパイクの紐に火をつける「Hot-foot」といういたずらを行っていた。これによって、「Flying Dutchman(飛ぶオランダ人、20世紀初頭の名遊撃手ホーナス・ワグナーのニックネーム)」ならぬ「Frying Dutchman(揚げるオランダ人)」というあだ名をつけられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バート・ブライレブン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bert Blyleven 」があります。 スポンサード リンク
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