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バーン・ガニア(Verne Gagne、本名:LaVerne Clarence Gagne、1926年2月26日 - 2015年4月27日〔)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。AWAのオーナー兼プロモーターとしても活躍し、AWAの帝王と呼ばれた。息子のグレッグ・ガニアもプロレスラーである。 == 来歴 == ハイスクール時代は、レスリングとアメリカンフットボールの選手として活躍。ミネソタ大学(University of Minnesota)に進学後、NCAAのレスリング王座を二度獲得。1948年にはフリースタイルのロンドンオリンピック代表に選ばれた。フットボール選手としても短期間だがNFLのシカゴ・ベアーズに1947年のNFLドラフトで指名されて プレーした。 万能スポーツ選手としての華々しい実績から、NWAミネアポリス地区のプロモーターにスカウトされ鳴り物入りで1949年にプロレスデビュー。NWA世界ジュニアヘビー級王座、初代USヘビー級王座を獲得するなど活躍し、ルー・テーズなどと並ぶメインイベンターとなる。しかし政治的な待遇面でNWA会長のサム・マソニック派と衝突し、1960年5月にミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを離脱。ミネアポリスを本拠地とするAWAを創設した。 1960年8月16日にはフラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座を獲得。以降、ジン・キニスキー、ミスターM、クラッシャー・リソワスキー、フリッツ・フォン・エリック、マッドドッグ・バション、ドクターX、ニック・ボックウィンクルらを破り、最後の戴冠を果たした1980年7月18日までの20年間に、同王座を通算10回獲得〔、長期間トップレスラーとして君臨した。プロモーターとしても短期間でNWAの対抗勢力にまでAWAを成長させ、現役レスラーであったことなどから会長にはならなかったものの実権を掌握した。また、国際プロレスとの提携で欧州からビル・ロビンソンや若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントなどをアメリカに迎え入れたほか、リック・フレアーをはじめ後に名声を馳せるレスラーを指導・育成したことでも知られる。 1981年1月18日にはジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場の保持するPWFヘビー級王座と自身の保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行い(3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛)、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれている。同年5月、AWA王座を保持したまま引退。団体経営に専念する。 しかし、レスリングの名選手だったガニアはレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が顕著で(悪役ですらマッドドッグ・バションやバロン・フォン・ラシクのように「レスリングの出来る」選手が重用された)、彼の引退後に台頭してきたハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズなどの派手なパワーファイターには懐疑的で彼らの商品価値を見誤り、1983年以降のWWF(現WWE)のプロモーション戦略に押され有力所属選手が次々と離脱。 NWAと連携するなどして勢力の回復に尽力するが、AWAの人気は凋落し1991年に崩壊。AWA崩壊後の1993年、ガニアは自己破産した。以降、ミネソタ州知事となったジェシー・ベンチュラの相談役として表に出たこともあったが、プロレス業界との関係を絶っていた。 2006年、WWE殿堂に迎えられ久々に公の場に姿を見せた。ガニアの場合はWWEの歴史上には「対立組織の総帥」としてしか登場しないが、WWWF設立以前のマディソン・スクエア・ガーデンの主役ではあった。彼の受賞をきっかけとしてWWEの歴史には登場しない他のNWA、AWA系の人物たちも続々と殿堂入りを果たしている。 2009年1月末、ミネソタ州の養護施設内で97歳(当時)の男性が転倒し、腰などを骨折。合併症で2月14日に死亡した。遺族は85歳(当時)のガニアがその男性を床に投げつけたとしたが、目撃者は不在で男性・ガニアとも認知症を患っており、ガニアは殺人罪には問われなかった。その後は娘夫婦と共に暮らしていた〔。 2015年4月27日、死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バーン・ガニア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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