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パトリシア・モラーズ : ミニ英和和英辞書
パトリシア・モラーズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

パトリシア・モラーズ : ウィキペディア日本語版
パトリシア・モラーズ[ちょうおん]

パトリシア・モラーズPatricia Moraz)は、スイス映画監督脚本家映画プロデューサーである。キーボーディストパトリック・モラーツは弟。
== 来歴・人物 ==
スイス・ヴォー州レマン湖に面した町モルジュに生まれる。
1968年、4人の若手監督クロード・シャンピオンフランシス・ロイセールジャック・サンドスイヴ・イェルサンが、自分たちの製作会社「ミロス・フィルム」での第一作、オムニバス映画『''Quatre d'entre elles''』をつくる際、そのうちの一篇、ロイセール監督の『''22 ans - Patricia''』の主演女優としてデビュー。翌1969年、ロイセール監督の長篇デビュー作『''Vive la mort''』で、監督と共同で脚本を書き、脚本家としてデビューする。ロイセールとはのちの『''Le Grand soir''』(1976年)にも共同で脚本を書いている。アラン・タネールクロード・ゴレッタとともに「グループ5」社を設立したジャン=ルイ・ロワ監督の『''Black Out''(ブラック・アウト)』(1971年)に共同監督に参加。
1977年、長編映画『インディアンはまだ遠くに』で映画監督としてデビューする。イザベル・ユペールを主演にしたフランス・スイス合作映画である。同作は、同1977年ロカルノ国際映画祭でエキュメリック審査員特別賞を獲得した。1980年には、スイス・フランス・ベルギー合作の第二作『''Le Chemin perdu''(失われた道)』を監督した。ヌーヴェルヴァーグの重要な作家であり人類学者ジャン・ルーシュの弟子でもあるジャクリーヌ・ヴーヴ監督と並んで、1970年代の「ヌーヴォー・シネマ・スイス」の生んだ女性監督と目された〔シネマテーク・スイスの公式サイトのREDECOUVRIR LE NOUVEAU CINEMA SUISSE での記述より。〕。
1984年には映画プロデューサーとして、『''Strangulations blues''』(1980年)など短篇を撮っていた当時24歳のレオス・カラックス監督に、長篇映画『ボーイ・ミーツ・ガール』を撮らせ、映画監督としてデビューさせた。同作は、同年の第37回カンヌ国際映画祭のパラレルセクションで上映され、青年のための賞をカラックス監督が受賞した。
1991年には、ヴェルナー・シュレーター監督の『''Malina''』で、インゲボルク・バッハマンの小説を原作に、小説家エルフリーデ・イェリネクミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』の原作者)が書いた脚本に関わり、フランス語脚本を書いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「パトリシア・モラーズ」の詳細全文を読む




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