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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie、1959年11月21日 - )は、ブラジルの男性柔術家、総合格闘家。リオデジャネイロ州出身。ヒクソン・グレイシー柔術所属。グレイシー柔術八段。 グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーの三男。息子のクロン・グレイシーも柔術家、総合格闘家である。 日本においては、総合格闘技の試合で高田延彦や船木誠勝など著名なプロレスラー、格闘家を相次いで破った。バーリ・トゥードルール、いわゆる「なんでもあり」の試合、グレイシー柔術の技術を使っていたとはいえ、相手をテイクダウンし、マウントパンチで攻撃、最後は絞め技や関節技に持っていくというスタイルを使っていた。 == 来歴 == 18歳でエリオ・グレイシーからグレイシー柔術黒帯を授与された。 1993年、UFCが開催されることになり、ヒクソンは一族を代表して出場することを強く希望するが実兄のホリオンによって却下される。結局、弟ホイスのセコンドでサポートにまわることに合意する。そのUFCにおいて優勝したホイス・グレイシーが「兄ヒクソンは私の十倍強い」と発言した。 400戦無敗というマスコミの報道はもちろん誇張されたもので、本人が積極的に公言したわけではない。「ビーチでのストリートファイトも含めてそれぐらいの試合を経験した」と本人が佐山聡に語ったところ、それがキャッチフレーズとして使われ続け、今日に至っている。柔術を始めて間もない頃や米国のサンボの試合で敗れているが、本人はそれを隠すことなく認めている。しかし、道場での試合を含めて無敗というのは明らかな嘘で、叔父であるカーウソン・グレイシーの道場では何度も関節を極められて降参している。 ブラジリアン柔術がUFCでその名を世界的に知られるようになる以前は、その大会自体がまだ小規模で、しかも不定期開催だった。そのため、彼の実際の戦績を正確に把握することは極めて難しい。また記録に残る公式な試合より、ストリートファイトの経験のほうが多いともいわれている(GRACIE WAYを参照)。 1994年7月29日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1994で初来日。1回戦では西良典、準決勝ではダビッド・レビキ、決勝ではバド・スミスにほぼ無傷で勝利し、圧倒的な強さを見せた。西以外は寝技に免疫のない打撃選手であったが、テイクダウンからマウント、絞めを狙うシンプルな戦法のみであったがインパクトは大きく、打撃重視、組技軽視の格闘技の価値観を逆転させるほどであった。この試合をきっかけに、修斗はグラウンドパンチを完全に解禁し、他の興行もその流れにしたがっていく。 1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソンの道場へ道場破りに来た安生洋二の挑戦を受け、その場で返り討ちにした。試合時間は6分あまり。開始直後にマウントポジションをとって一方的に殴り続け、最後はチョークスリーパーで絞め落とした。公式試合ではないが、多くの弟子が見守る中で行い、証拠としてビデオ録画もさせている。ヒクソンはこの闘いでマウントパンチを多用し、安生を血だるまにさせた。ヒクソンの試合はマウントパンチはあくまで関節や絞めを取るための布石のような使い方をするが、このような道場破り相手では、簡単にタップさせると「俺は負けていない」と相手がごねるケースがあるため、誰が見ても勝敗がはっきりわかるようにマウントパンチを多用したと語っている。この道場破りは安生の個人的意思とは違う理由(詳細は安生洋二の項目を参照)が大きかったのをヒクソンは理解し、試合後安生をねぎらうコメントを残した。 1995年4月20日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1995に出場。前回と違い、「ロープ掴みOK」というルールの影響や対戦相手に研究されていたために時間はかかるも、さほどのダメージもなく優勝。1回戦では山本宜久、準決勝では木村浩一郎、決勝では中井祐樹を、それぞれチョークスリーパーで下した。 1997年10月11日、PRIDEの初興行となったPRIDE.1で高田延彦と対戦。高田にほぼ何もさせず腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。 1年後の1998年10月11日、PRIDE.4で高田延彦のリベンジマッチを受け、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。 2000年5月26日、コロシアム2000で船木誠勝と対戦。「肘打ち無し」のルールを自ら希望して臨んだ。船木のパンチで左眼下底を骨折するも、レスリング技のスナップダウンでグラウンドに持ち込んでからは圧倒。バックをとると船木の片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーで絞め落とした。全く抵抗さえしなかった船木はこの時の感想を「死ぬかと思った」と語っている。 2001年2月、長男ハクソン・グレイシーがニューヨークでバイク事故で死去してから約1年間表立った活動を控えていたが、2002年4月26日、自身の写真集「21st CENTURY WARRIOR'S SPIRIT」の出版と同時に活動を再開。 2005年10月19日、カリフォルニア州でブドーチャレンジを主催した。 2007年9月17日、HERO'Sに参戦した弟子ケビン・ケーシーのセコンドとして来日。試合前日に新宿ステーションスクエアで行われた公開記者会見では桜庭和志と握手をかわした。大会当日には、リングに上がり「もう1試合戦いを見せる力はまだあります」とHERO'S参戦を宣言した。 2007年12月8日にブラジルで開催された『スーパーチャレンジ・グラップリング』のルールディレクターを務めた。 2008年2月、全日本柔術連盟(JJFJ)を設立し、初代会長に就任。なお、相談役は父であるエリオ・グレイシー、理事長は弟子の渡辺孝真が務めている。 同年5月と翌2009年6月27日の、「ヒクソン・グレイシー杯国際柔術大会」のため来日。 2010年9月24日、日本でビジネスマン向け新刊書『ヒクソン・グレイシー無敗の法則』(ダイヤモンド社)を刊行し、同日、新宿コクーンタワー・ブックファーストでファン向けイベントを開催する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒクソン・グレイシー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Rickson Gracie 」があります。 スポンサード リンク
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