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ビリー・ホリデー : ミニ英和和英辞書
ビリー・ホリデー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ビリー・ホリデー ( リダイレクト:ビリー・ホリデイ ) : ウィキペディア日本語版
ビリー・ホリデイ[ちょうおん]

ビリー・ホリデイ(Billie Holiday, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国ジャズ歌手
レディ・デイ」の呼称で知られる。サラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる〔コリアー、ジェイムズ・リンカン著《ホリデイ、ビリー》、The New Grove Dictionary of Music and Musicians、出版社L.ナンシー〕。人種差別や、麻薬アルコール依存症との闘いなど壮絶な人生を送った彼女は、多くの人々を魅了したその声も晩年にはかれ、音域も極端に狭くなっていた。しかし、なお情感豊かな唄声は他に並ぶ者がないほどの高い評価を与えられ、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。
彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「''Strange Fruit''奇妙な果実」や「''God Bless' the Child'' (神よめぐみを)」、「''I Love You, Porgy'' (アイ・ラブ ・ ユー、ポーギー) 」、「''Fine and Mellow'' (ファイン・アンド・メロウ) 」は、後年、多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ヴォーカルの古典となった。
ジョン・ハモンドに見出され、初レコーディングはベニー・グッドマン楽団と行う。その後、テディ・ウィルソン楽団、カウント・ベイシー楽団らと共演した。特に、著名なミュージシャン達から大きな目標とされていたサックス奏者レスター・ヤングとの共演が名高い。
Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位。
従兄は、プロボクサーヘンリー・アームストロング
2000年に、ロックの殿堂入りを果たした。
== 生涯 ==

=== 女、黒人、そして貧困 ===

ビリーことエリノラ・フェイガン・ゴフは、1915年にフィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアのフェルズ・ポイント地区で育った。
彼女が生まれたとき、母、セイディ・フェイガンは19歳。母子家庭で育てられ、父はクラレンス・ホリデイ17歳とされているが、確かなことは不明。ただ、母が「あなたの父さんはクラレンス・ホリデイ」と言っていたことから、「ホリデイ」を名乗る。
自伝『レディ・シングス・ザ・ブルース』〔自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》:1956年、新聞記者ウィリアム・ダフティによりそれまでのインタビューをもとに編集出版された。邦題『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』油井正一・大橋巨泉 訳 晶文社刊。〕によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」ふたりが結婚し、自分はその間に生まれたとされているが、これはビリー本人により捏造された話のひとつである。この自伝は、近年、ジャーナリストたちの尽力により、彼女が自分の出生を脚色していたことが明白になってきた。事実は、彼女が言うほど牧歌的なものではなかったようだ。クラレンスとセイディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれた子・エリノラを認知しようとさえしなかった。彼はジャズギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏。昼は街頭を流して生活をしていた。母親のセイディにとっても娘の面倒を見る時間など無く、結果、エリノラは母の親族に委ねられてしまう。
母セイディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねた。親族の家を転々として生活していたエリノラにとっても、日々の生活は楽なものではなかった。従姉アイダの暴力に耐えなければならないうえ、ある日、初めてトラウマ(心的外傷)を経験する。自分を腕に抱き、昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまったのだ。幼い彼女は死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚め、パニックを起こす。そのときの心的外傷後ストレス障害からエリノラは何週間もの間、酷い無言症を患うことになった。
数年後、母セイディはエリノラを再び手元に引き取った。だが彼女は相変わらず外泊が多く、そんなある夜、エリノラは近所の男に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストが著した『ビリー・ホリディ』〔ノンフィクション書『ビリー・ホリディ』94年初版、スチュアート・ニコルソン著。邦題『『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』鈴木玲子訳 日本テレビ放送網刊〕によると、それは1926年、クリスマス・イブのことだった。朝、当時の恋人と一緒にセイディが家に戻ると、11歳のエリノラ(彼女の自伝には10歳だったと記載)が男とベッドの中に居たのだ。エリノラはすぐに医師の診察を受け、男は有罪になったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエリノラは、1925年に補導されたときと同様、カトリックの修道女が運営する施設「よきヒツジ飼いの家」に再送致される。1927年2月まで生活した修道院は、13〜18歳の黒人少女が集められた更生施設だと謳っていたが、内情は虐待や暴行が日常茶飯事のように行われ、しかも事実上の感化院であった。
1928年、セイディは娘を取り戻し、ニューヨークへと移り住む。娘を売春宿に預けて再び売春を始めるが、1929年には母と共にエリノラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。
やがてビリーは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。大量のアルコールと朝まで響きわたるジャズ。無一文で、住むところも追い立てられる状況の中、地元のクラブで「''Body & Soul'' (身も心も)」を唄うビリーに、観客は皆、涙したと伝えられる。様々なクラブで仕事をするようになったホリデイは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも唄い始めた。この頃、エリノラの父クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
そんな中、偶然に導かれるように彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。エリノラ、15歳。芸名を決める時期がきた。何でもよかった訳ではない。幼い頃、自分に会いに来た父が男の子みたいな娘をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに、父の姓をつけて芸名とした。不世出のジャズ・シンガー、「ビリー・ホリデイ」の誕生である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビリー・ホリデイ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Billie Holiday 」があります。




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