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『フィガロの結婚』(フィガロのけっこん、、、、)は、フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に書いた風刺的な戯曲、ならびに同戯曲を題材にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1786年に作曲したオペラ作品()である。オペラ作品のリブレット(台本)はボーマルシェの戯曲に基づき、イタリア人台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテが書いた。本項では主にオペラ作品について扱う。 == 概要 == 原作は喜劇『セビリアの理髪師』(第1部 1775年 / パイジエッロ(1782年)、ロッシーニ(1816年)がオペラ化した)、正劇『』(第3部 1792年)とともにフィガロ三部作〔"The Figaro Trilogy: The Barber of Seville, The Marriage of Figaro, The Guilty Mother", ISBN:0199539979〕と呼ばれている。 『フィガロの結婚』は前作『セビリアの理髪師』の好評を受けての続編。正式な題名は『狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚』(''La Folle journée, ou le Mariage de Figaro'')。この戯曲は1786年にパリで初演され、前作以上の評判を得た。 封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて貴族を痛烈に批判しており〔フィガロの独白「貴方(伯爵)は豪勢な殿様ということから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と! だが、それほどの宝を獲られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか! おまけに人間としても平々凡々(以下略)」は世襲政治家や貴族への揶揄として度々引用される。〕、度々上演禁止に遭った。このような危険な作品をオペラ化し、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世のお膝元ウィーンで上演できた理由は不明だが、ダ・ポンテの自伝によれば、彼がうまく皇帝を懐柔して許可を得たことになっている。 ウィーンのブルク劇場で1786年5月1日、モーツァルトが30歳の時に初演。ある程度の好評を得たが、原作の貴族批判は概ね薄められているとはいえ危険視する向きもあり、早々にマルティン・イ・ソレールの『椿事』(''Una cosa rara'')に差しかえられてしまった。モーツァルトが次に書いたオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の後半で、『椿事』の一節に続き『フィガロ』の「もう飛ぶまいぞこの蝶々」の一部を演奏しているのは。 こうしてウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、当時オーストリア領だったボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの歌劇場で大ヒットした。作曲者も招かれて有意義な時を過ごし(この時に交響曲第38番『プラハ』K.504を初演している)、新作オペラの注文までもらえた。これが翌年初演した『ドン・ジョヴァンニ』K.527である(同じくダ・ポンテのリブレットによる)。 日本初演は1941年6月に東京音楽学校で行われた。舞台初演は1952年。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィガロの結婚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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