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フィッツモーリス子爵 : ミニ英和和英辞書
フィッツモーリス子爵[ししゃく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
子爵 : [ししゃく]
 (n) viscount

フィッツモーリス子爵 ( リダイレクト:ランズダウン侯爵 ) : ウィキペディア日本語版
ランズダウン侯爵[らんずだうんこうしゃく]

ランズダウン侯爵()は、イギリス侯爵位。グレートブリテン貴族
13世紀以来の長い歴史を持つアイルランド貴族ケリー伯爵(ケリー=リックナウ男爵)の分流で首相を務めた第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ1784年に叙されたのに始まる。3代侯の代の1818年からはフィッツモーリス家の本家となり、ペティ=フィッツモーリスと改姓してケリー伯爵位とケリー=リックナウ男爵位も併せて継承している。
== 歴史 ==

13世紀以来ケリー=リックナウ男爵位を継承し続けてきたアイルランド貴族フィッツモーリス家の当主初代ケリー伯爵(第21代ケリー=リックナウ男爵)トマス・フィッツモーリス(1668–1741)とその妻アン・ペティ(経済学者ウィリアム・ペティの娘)の次男ジョン・フィッツモーリス(1706-1761)は、ホイッグ党庶民院議員を務めた後、1751年に母方の姓ペティに改姓するとともにペティ家に由来する爵位を与えられた。1751年10月7日にはアイルランド貴族フィッツモーリス子爵(Viscount FitzMaurice)とダンケロン男爵(Baron Dunkerron)、1753年6月6日にはアイルランド貴族シェルバーン伯爵(Earl of Shelburne)、1760年5月20日グレートブリテン貴族バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム男爵(Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)に叙せられた。
その長男で1761年に第2代シェルバーン伯爵を襲爵したウィリアム (1737-1805)は、ホイッグ党の有力政治家となり、1782年から1783年にかけてイギリスの首相を務めている。彼の在任中にアメリカ独立戦争の講和条約パリ条約の締結が行われた。首相退任後の1784年12月6日にはランズダウン侯爵(Marquess of Lansdowne)、バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム伯爵(Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)、キャルネ=キャルストン子爵(Viscount Calne and Calston)に叙せられた(すべてグレートブリテン貴族)〔。これがランズダウン侯爵家の創始となる。
初代侯の死後、その長男である(1765-1809)が2代侯となった。彼は襲爵前の1786年から1802年にかけてホイッグ党の庶民院議員を務めたが、襲爵から4年後の1809年に死去した〔。
2代侯には子供がなかったので、その弟(初代侯の次男)であるヘンリー (1780-1863)が3代侯を継承した。彼はホイッグ党の穏健派閥の幹部としてホイッグ党、あるいはトーリー党自由主義派の内閣で財務大臣内務大臣、、などの閣僚職を歴任した。また1818年には本家筋にあたる第3代ケリー伯が男子なく死去したため、第4代ケリー伯爵(Earl of Kerry)と第4代クランモーリス子爵(Viscount Clanmaurice)、第24代ケリー=リックナウ男爵(Baron of Kerry and Lixnaw)も継承することになった。この際に「ペティ=フィッツモーリス」に改姓した〔。
3代侯の死後、その次男(長男は死去)である(1816-1866)が4代侯となった。彼は襲爵前の1837年から庶民院議員を務め、1856年にはいまだ父が存命ながらにより父の爵位ウィコム男爵位を継承して貴族院議員となった。ホイッグ党(自由党)に所属し、1856年から1858年にかけてホイッグ党政権第一次パーマストン子爵内閣でを務めた。しかし襲爵から3年後の1866年に死去している〔。
その長男である5代侯ヘンリー (1845-1927)もはじめ自由党の政治家だったが、彼は自由統一党を経て保守党(統一党)へ移籍し、20世紀初頭の保守党政権第3次ソールズベリー侯爵内閣とバルフォア内閣で外務大臣(在職1900-1905)を務め、日英同盟英仏協商の締結に尽力した。また彼は1895年6月26日に母親の第8代ネアーン女卿からスコットランド貴族爵位の第9代(Lord Nairne)を継承している。
その長男である6代侯(1872-1936)は襲爵前に保守党の庶民院議員を務めた。またアイルランド自由国成立後の1922年には同国の元老院議員となっている。
その長男である7代侯(1917-1944)は、第二次世界大戦に従軍したが、子供のないまま戦死した。そのため爵位は7代侯の従兄弟(5代侯の次男チャールズの子)にあたる(1912-1999)が継承した〔。しかしこの際に女系継承が可能なネアーン卿位のみは7代侯の姉キャサリン(1912-1995)に継承されており、以降ネアーン卿位はランズダウン侯爵位と分離した〔。
8代侯の長男である第9代ランズダウン侯爵(1941-)が現在の当主である〔。
本邸はウィルトシャー・にある。一族のモットーは「言葉ではなく勇気を持て(Virtute Non Verbis)」〔。''(Lord Nairne)を継承している。
その長男である6代侯(1872-1936)は襲爵前に保守党の庶民院議員を務めた。またアイルランド自由国成立後の1922年には同国の元老院議員となっている。
その長男である7代侯(1917-1944)は、第二次世界大戦に従軍したが、子供のないまま戦死した。そのため爵位は7代侯の従兄弟(5代侯の次男チャールズの子)にあたる(1912-1999)が継承した〔。しかしこの際に女系継承が可能なネアーン卿位のみは7代侯の姉キャサリン(1912-1995)に継承されており、以降ネアーン卿位はランズダウン侯爵位と分離した〔。
8代侯の長男である第9代ランズダウン侯爵(1941-)が現在の当主である〔。
本邸はウィルトシャー・にある。一族のモットーは「言葉ではなく勇気を持て(Virtute Non Verbis)」〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ランズダウン侯爵」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marquess of Lansdowne 」があります。




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