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フィリップ・カーニー(、1815年6月2日-1862年9月1日)は、アメリカ合衆国陸軍の士官であり、フランスに渡って騎兵戦術を学び、フランス軍に参加して戦い勇猛の名をほしいままにした。アメリカに戻って米墨戦争と南北戦争で活躍した。1862年のシャンティリーの戦いで戦死したが、敵である南軍からもその死を惜しまれた。 == 生い立ちと青年時代 == カーニーはニューヨーク市で富裕な家庭に生まれた。母方の祖父はジョン・ワッツといい、船と製粉場、工場、銀行および投資対象の家屋を所有するニューヨークでも最も富裕な住人の一人であった。カーニーの父親はやはりフィリップといい、ハーバード大学を卒業したニューヨーク市の資本家であり、自分で仲買会社を所有し、ニューヨーク証券取引所の設立者だった。カーニーは少年時代に軍隊に入りたいと思った。若い頃に両親が死に祖父に育てられたが、祖父はカーニーの軍人志望に反対し、法律家にならせたかった。カーニーはコロンビア大学で学び、1833年に法律の学位を取得した。カーニーの従兄弟、ジョン・ワッツ・ド・ペイスターもコロンビア大学出身で、後にカーニーの信頼できる伝記を書いた。 1836年、祖父のワッツが死に、カーニーに100万ドル以上の遺産を残した。カーニーは何もしなくても一生贅沢に生きていけたが、軍隊を職業に選んだ。翌年、騎兵少尉に任官し、叔父のスティーブン・W・カーニーが指揮しているアメリカ第1竜騎兵隊に配属になった。叔父の副官は後にアメリカ連合国大統領になったジェファーソン・デイヴィスであった。この連隊は西部戦線勤務となった。 1839年、カーニーは騎兵戦術を学ぶためにフランスへ派遣され、まず有名なソミュールの騎兵学校で学び、続いてアルジェでアフリカ猟騎兵隊と共に幾つかの戦闘に参加した。カーニーは右手に剣、左手に拳銃、歯には手綱を銜えて戦場に乗り入れ、まさに猟騎兵のスタイルをとった。戦闘におけるその恐れを知らない性格によって、フランス人の僚友から「カーニー・ル・マニフィーク」すなわち偉大なカーニーという渾名をもらった。カーニーは1840年の秋にアメリカに戻り、海外での経験を元に軍隊のために騎兵のマニュアルを準備した。 その後直ぐに、アレクサンダー・マコーム将軍の副官に指名され、1841年6月にマコームが死ぬまでその職にあった。その数ヵ月後、ペンシルベニア州カーライルの騎兵宿舎で、ウィンフィールド・スコットの参謀に指名され、さらにその副官になった。カーニーは再度前線に出て、1845年には叔父の部隊に同行してオレゴン・トレイルの南路の遠征に参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリップ・カーニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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